目黒川は玉川上水を水源とする世田谷を流れている烏山用水と、松沢村内殿竹(とのたけ)(現上北沢)より代田を経て池尻に流れている二流が上目黒で合流し、さらにここで蛇崩川(じゃくずれかわ)という小川と合して、中目黒・下目黒・谷山(ややま)・桐ケ谷・上大崎・下大崎・居木橋(いるぎばし)の村々を通って、南・北品川の町を横断し、猟師町(りょうしまち)より東京湾にそそいでいる。
文政十一年(一八二八)四月に提出した「地誌御調書上」には、目黒川のことを
南・北品川宿境に相流れ候目黒川の儀は、水源荏原郡世田谷領村々悪水落ち込むゆえ、出所巨細(こさい)には相知れ申さず、同領鶴巻(つるまき)村(世田谷区弦巻町)辺より川幅三間余の川に相い成り、宿内ニては幅拾間余(約一八メートル)、落口ニては弐拾間(約三七メートル)程ニ相い成り、海に落ち申し候、
とあり、また弘化二年(一八四五)九月、幕府御普請方に対して書上げた「沿革御調ニ付品川宿村書上扣」(資一三四号)の猟師町の項には
後末(目黒川)は当宿利田新地字鳥海橋下ニて海え入り申候、古名は荏原(えばら)川と唱候由之処、目黒村地内相流候故、何之頃よりか里俗目黒川と唱申候、
とあり、昔は右のように荏原川といっていたのが、のちに目黒村を流れて通るため、おのずから目黒川とよばれるようになったらしい。川幅も同書には、鶴巻村(世田谷区弦巻町)辺より二・三間(三・六メートルから五・四メートル)ほどの小流であったのが、下大崎村付近では五間(九メートル)より六間(一〇・八メートル)、さらに下流の居木橋・桐ケ谷村辺で六間、また海にそそぐ手前の北品川宿村では拾間(一八メートル)くらいと記録されているごとく不同であった。
なおこの目黒川の川筋は、江戸時代でも大正・昭和初年の改修工事以後の現水路とさしてかわりなかったとみられるが、蛇行した水流はところどころに淵や瀬をつくって、あるいは広く、また細くなったりしながら流れていた。