目黒川は地形のため少しの雨量でもすぐに溢水して、流域の村民は、浸水・冠水などの被害にしばしばなやまされていた。江戸時代にはいってから記録に残る目黒川洪水の初見は「続日本王代一覧」の寛永八年(一六三一)九月の条に「大風雨、被害多大、目黒川洪水」とあるが、くわしい被害状況は明らかでない。品川近辺に関する記事としてこれ以後正保元年(一六四四)八月四日、連日の豪雨のため六郷川(多摩川)・荒川に出水があったが、このとき「柳営日次記(りゅうえいひなみき)」(幕府の日記)に
品川・板橋・王子・浅草・千寿(千住)・高田・目黒・六郷・戸田・市川右の所に見分のための御徒衆を遣わさる。
と、幕府より被害状況視察の役人が、品川・目黒にも派遣されている記事がみられるが、当然このときには、目黒川も氾濫したと考えられる。
正保の大洪水のあと、寛文十一年(一六七一)・延宝五年(一六七七)・同八年(一六八〇)・元禄十六年(一七〇三)宝永四年(一七〇七)などの断片的記事は諸書に散見するが、具体的な事例は記録されていない。しかしひとたび暴風雨や地震などで、江戸湾を高潮や津浪が襲ったときには、かならず目黒川の河口では溢水の被害をうけていた。
居木橋(現大崎一丁目付近)に昭和初年ごろまで住んでいたある古老はこんな話をしていた。「むかし(寛永ごろ―一六三五―)は、村の中心部落は小字本村(現大崎一丁目七~十七番地付近)にあって、村の旦那寺である観音寺も、品川境である目黒川べりの旧鎌倉街道近くに建っていたが、目黒川の洪水に何回も襲われたので、村といっしょに丘の上の字原畑通り(現大崎二~三丁目一帯)に移転したと伝えられている。またこの本村のヤトの神である『子ノ神社』も、以前は森永橋の南橋詰東側(大崎一丁目)にあって、ここの境内にある名木〝居木(いるき)の松〟(居木橋村名の起源)を移動した村民が、部落の源地として記念にしていたが、この名木も安政三年(一八五六)八月の暴風雨で倒されて、いまはなくなってしまった」と目黒川洪水の被害による悲しい昔物語を教えてくれた。