その後の目黒川での記録的な大きな溢水は、享保十三年(一七二八)九月二日の大氾濫である。この時は八月九日より連日大雨が降りつづき、多摩川・目黒川をはじめ、江戸周辺の大小河川が増水し、ついに九月二日の昼八ッ時(二時)になって目黒川が氾濫した。
品川辺大水にて、東海寺内など入口角野寿軒住宅、水五尺程上れり、本堂へも方丈へも水上り候よし、定慧院隠居桃林和尚の方へも水押上げ立退き候由、石野八太夫物語なり。扨品川茶屋町なども大破に及び、橋より先は鈴ケ森迄水充満して海の如くのよし風聞なり。是は目黒筋の川水と六郷の川より押来り、品川の橋先きは家も押流し、水におぼれ死したる者も多しと承る(『江戸洪水記』)。
と記しているとおり、多摩川と目黒川の両河川があふれ出たのだから大変である。目黒川南岸から大井村までの間は水浸しである。とくに品川周辺の被害については
目黒ヨリ品川・鈴ケ森・品川宿・高輪・芝増上寺門前迄水高五尺程之由、
と「江戸洪水之書付」(『東京市史稿』)に報じているが、五尺(約一・五メートル)の水かさでは、当然人の歩行は不可能なため、舟で往来するより方法がなく、そのためにはかなりの浸水家屋や人災もあったろうと考えられる。
事実この時には、両国・新大橋・柳橋・和泉橋・昌平橋・江戸川橋など、江戸市中の大半の橋が流され、死者の数も約一、〇〇〇人、江戸周辺の地区を合わせると、約八、〇〇〇人にも達したといわれている(『江戸洪水一件留』『柳営日次録』)。この大水は三日の四ッ時(午前十時ごろ)になって引いていったことが「月堂見聞集」によってわかる。これにつづく大洪水は寛延二年(一七四九)八月十三日の豪雨である。
この間にも寛保二年(一七四二)八月朔日の夜に大風雨があった。
六郷川水増故、品川海道・芝辺出水、右大浪打候節、川崎・品川辺は津浪のごとく、諸人驚と云、
と『続むさしあぶみ』に書かれている如く、品川泊まりの諸大名は、海からの津浪と、目黒川の溢水のために宿が水びたしになったため、泊まることができず、在辺に立退いたといわれている。