寛延の大洪水

1091 ~ 1091

寛延二年(一七四九)の年は記録的な長雨が続き『武江年表』にも

  当夏中より雨繁く、降り(ママ)し七月も晴間なく、廿五日にいたり大風雨あり、夫より雨降り続きて八朔大風起り、時々雨降り八月十三日の暁より北風大嵐となる。

と大風雨の模様を記録しているが、この時は、目黒川南岸の南品川貴船(きふね)明神門前(南品川一丁目三番の北側)付近で溢水したため、同門前の民家八棟と土蔵五棟が流され、その流されたあとが、幅四間(七・二四メートル)・長さ一二間半(二二・六三メートル)・深さ七尺(二・一二メートル)の大穴があいていたと同門前の役人が町奉行所へ報告している(『享保撰要類集』)。なおそのときの洪水によって北品川宿三丁目より、境橋の間約百間余(一八一メートル)の護岸が破壊され、幕府の費用で修理したとの記事が『新編武蔵風土記稿』にみられる。寛延大風水の以後も風水害は絶え間なく続いた。海岸に面している品川三宿や猟師町・大井村などの東部一帯の低地では、風向と満潮時がいっしょになれば、かならず大波が海岸の石で築いた堅固な護岸をとびこし、東海道の道ばたまではい上がり、それと豪雨による増水が重なると、目黒川では、居木橋・御成(おなり)橋の中間ぐらい(現大崎駅付近)まで、立会川では下立会橋辺(現大井町駅付近)まで出水したといわれている。