記録的な大水害といわれている天明六年(一七八六)の水害は、「早春より四月の半迄雨なく、日々烈風にして諸人火災の備のみにて、安きこころなし、五月の頃より雨繁く、隔日の様なりしが、七月十二日より別て大雨降続き、山水あふれて洪水となれり」と例年にない異常気象であったらしく、七月十三・四日ころから江戸府内の牛込・小石川辺で出水がおき、氾濫で湖のようになったといわれ、隅田川・江戸川・多摩川の大河をはじめ、府内外の中・小河川もことごとく氾濫し、ようやく十八・九日ころより減水のきざしをみせ、十九日になって雲間より青空が見えはじめたと報告している。この天明の水害の特徴は、低地ばかりでなく、つね日ごろ水害に関係のない牛込や四谷辺の高台までも被害を生じ、崖崩れや浸水にあったことである。
区内でも大井・新井宿あたりの人たちがいい伝えとして、天明の大水害は多摩川北岸の堤が欠壊し、その濁流が北東に流出して大森村から不入斗(いりやまず)村へあふれ、さらに余勢をかって立会川南岸まで来たほどで、明治十八年(一八八五)七月三日の水害に匹敵し、世に多摩川の二大洪水といっているほどの大洪水であった。そのために当然目黒川や立会川も溢水したが、被害状況は「品川は中水の所に其名見ゆるのみにて、被害の程度は知れぬ」(『見聞雑録』)と記している程度で詳細は不明である。
天明以後の大暴風雨といえば、寛政三年(一七九一)八月六日の「江戸・品川・大井・大森・高輪・芝浦・築地辺大津波にて人家多く破損した」(『見聞雑録』)風水害があり、さらに文化六年(一八〇九)八月二十三日、文政三年(一八二〇)十月十六日、同六年(一八二三)八月十七日と颱風による被害が頻々と続出している。