安政の風水災と救済施策

1092 ~ 1093

安政三年(一八五六)八月廿五日の大暴風雨は『震災動揺集』によると、

五ッ頃(午後八時)より南風交り、風雨烈敷(はげしく)相成、家根瓦吹落し、家根板吹はがれ、その上戸障子ニ至迄も吹外し・吹飛し、上塀并板塀其外柵など吹倒し、大木吹折、(中略)川辺海岸にては津波ニて高汐打ち上げ、人家引込或は押流し大小船など陸え押上破損、

と暴風雨のすさまじさを記しているが、この強風雨も夜明けの四時ごろからようやくおとろえて、人の歩行もできるようになった。しかし被害は甚大で、「東海道筋は品川より大森海手御陣屋所々崩れ、六郷川も汐が打入った」(『時風録』)ほどで、品川周辺地区でも三宿の被害は次表の如くである。

第76表 安政の風水災被害軒数
南品川宿 北品川宿 歩行新宿 合計
家数 538 724 417 1579
皆潰家 18 29 38 85
半潰家 29 6 4 39
流失家 5 0 0 5
半流失家 3 0 0 3
大破家 43 28 33 104

 

 したがって多くの罹災者がでたが、幕府では早速この人たちの救済をしなくてはならないと考え、前から積み立てておいた「窮民手当金」の利息を貸付けて、難局をのりこえようとした。まず被災者数の調査をしたが、品川三宿では「小前合計百参拾弐軒で、家数甲乙なく手当金壱軒ニ付金弐分と永九文九厘づつ、合計で金六拾七両と永弐百文の御下ケ金を頂戴仕りたく」(「風災潰家其外共壱人別名前書上帳」)と願い出ている。以上の調査によって幕府では救済貸付配分をどのように行なったか。南品川新宿の例を「大風雨ニて汐冠流失家のもの御手当請印帳」(資三二七号)によってみると、南品川宿での流失家に対し、百姓幸右衛門には金三分、惣兵衛以下五軒は壱軒につき金弐分ずつ、合計で金三両壱分の御救御手当金拝借が許可されているが(前表によると南品川宿での流失家は五軒と書上げているので、半流失家を含んでいると考えられる)、この六軒にだけ貸付けられたということは、先の罹災者報告書に含まれている潰家(皆・半潰)と大破家は、貸付の対象から除外されたとも思われる。また返済方法についても「追って御沙汰これあり」と明らかにされていないが、貸付されたもののなかには借地・借家の人が多く、したがって本人が転宅や返済不能な場合は、借り主の地主や家主にかわって返済させるため、地主・家主が保証人として請印をいっしょに提出している。

 なおこのほかの風水害については、章末の「災害年表」を参照されたい。