(2) 立会川の〓濫

1093 ~ 1095

 品川区内で目黒川につぐ河川といえば立会川である。立会川は、昔は碑文谷(ひもんや)(目黒区)あたりの谷々より出る水があつまって一野水となり、さらに品川用水と落合って小流をなし、中延(なかのぶ)・上(かみ)・下蛇窪(しもへびくぼ)などの村々を通って大井を経て、浜川町より海に入った川である。

 前掲の「沿革御調ニ付品川領宿村書上扣」(資一三四号)にも立会川のことは、

川幅弐間(三・六メートル)より五間(九メートル)まで、

是は水上は碑文谷村・中延村辺、田場の悪水にて、大井村内に至り立会川の名目があり、流末は東海道往還字浜川橋下ニて海え入り申候、東海道往還通り左右に至り候ては浜川と唱、出洲を水車洲と申候、里俗北川筋を関ノ川と唱候得共、全く里俗之唱のみニて御座候、

(同書の「関川」の項には、本名は立会川にて、薩州様御抱屋敷南之方字下立会橋より川下、凡五・六間=九~一〇メートル=之間の川筋を関ノ川と唱申候とあり、第二五六図の「品川・目黒辺絵図」(国立国会図書館蔵)にも立会川のところは関川と記入されているので「全く里俗之唱」とも考えられない)


第256図 品川・目黒辺絵図

 立会川の名称の起源は諸説あって、なかには大井村の立会を流れるためとか、野菜を売買する人々の立会った所、また中延の滝合を流れるため滝合川がなまったなどがある。さらに古くは上杉・北条氏のあらそいがこの川をはさんで戦われたことより起こったともまことしやかに伝えられている。

 ともかく細い流れの立会川は、目黒川とともにしばしば溢水したが、流路のうちで一番氾濫した地域は、現在の一本橋付近から上流の第二京浜国道までの間であったという。ここの間は、立会川の蛇行の屈曲がことに多く、流路は細くくねくねと曲がっており、ひとたび集中豪雨でも降れば、たちまちにして上流から濁流が一気にこの地点まで流れくだり、いくえもの屈曲点にぶつかり溢水してしまう。流路の東側にある上・下蛇窪村地内の低地は、このために絶えず湿田であって、耕作に困難であったといわれている。現在の第二京浜国道から大井町に至る三間道路は、この川沿いの低湿地であった。