目黒川のたびかさなる氾濫に備えての水害対策は、まず第一に川口付近に護岸工事をすることであった。この護岸工事はいつごろから行なわれたかは不明であるが、『新編武蔵風土記稿』のなかに
北品川宿三丁目より境橋の西迄長二百八十六間、高三尺もしくは五尺、川岸に板を並べ、杭を打て土崩に備ふ、是を川除(かわよけ)堰板と称す、此堰元はすべて御普請所なり、そのうち百間余、寛延二年洪水の時破壊せしを公より修理ありし後、かの百聞余の所は自普請所となれり、
とある記事によっても、すでに寛延二年(一七四九)以前から、境橋(現品川橋)より川口までの区間、全長二八六間(約五一八メートル)に、高さ三尺より五尺(約一メートル~一・五メートル)の板をならべて杭を打った堤防が築かれていたことが判明すると同時に、この工事がすべて幕府の費用で行なわれたいわゆる御普請所であったこともわかる。その後寛延二年(一七四九)の大水害で全区間の約三分の一に当たる一〇〇間余(約一八〇メートル)、すなわち北品川宿境橋をはさんで、川上・川下の間が破壊され、このときは官費で修理されたが、この工事以後は、この区間のみが御普請所として設定され、あとの区間は、南・北・歩行新宿の三宿と、南品川猟師町の四ヵ町で費用を負担する箇所で、一般にいう自普請所となった。
また目黒川の川口は、猟師町の漁船の船溜りとして、品川冲での海難事故など、不慮の災害に出動する救助船の出入が自在であるように、つねに川幅が二〇間(約三六メートル)に確保されていた。ところが歩行新宿は街道の東側がせまく、目黒川の川岸に接近しているため、川幅をせばめて付洲を埋め立て道幅を拡げようと考え、北品川宿と共同して、宝暦二年(一七五二)五月に、支配代官伊奈半左衛門宛てに川尻の埋め立てを出願し許可されて、翌三年に工事を行なった。しかしこの川尻の埋立てによって、川幅はせまくなり、また出水のたびに冠水するため、今度は猟師町側で護岸の水除土手工事を出願した。この出願に対して、代官側は川岸沿岸諸村に賛否の意向を糺すため、返事を保留していたので、しびれをきらした猟師町は、直接幕府勘定奉行曲淵豊後守(英允)に箱訴して願意の貫徹をはかった。その結果、幕府普請方と支配代官役人双方の合同現地調査が実施され、ついに宝暦四年(一七五四)四月二十六日豊後守より、さきに施行された歩行新宿と北品川宿二宿の川尻の埋立て工事は、川幅をせばめたことになったのでよくないが、すでに工事は完了してしまったので仕方がない。しかしその代償として
①猟師町の網干場などを削って川口の幅を三五間(六三メートル)確保すること。
②右の代替え地として、猟師町は海に築出しを作って家作地を造成してよい。
③削りとった土や浚土は、猟師町の願い通りに川除土手を築くこと。
と裁定がおりた。そして以上の諸費用は、すべて歩行新宿と北品川宿の二宿の負担とすることとし、これに対し猟師町側には、支配代官をさしおいて直訴した罪として名主次郎右衛門を叱責処分にした。
以上のように猟師町の主張をかなり通した判決がなされた。裁判の結果、さっそく翌年二月、川浚え工事と水除土手工事が実施され、坪数石・砂利・土八三五坪七合、柵坪五〇七坪五合、杭木二八九本・葉付竹一、七二五本・人足等の諸費用一式で、金三一三両三分と、築出分二ヵ所で三一四両、合計で金六二七両を北品川宿・歩行新宿二宿の予担(よない)で施行し、同年四月工事は完成した。完了と同時に二宿と猟師町の間で
このたび目黒川浚え、願いの通り出来いたし、御役人中様御立ち合いの上、傍示杭御打ち下され候、右傍示杭前後の内、引き込み候場、これ以後段々砂利土など波先キニて押し上げ、或は波当り強く、乱杭など仕立て候義もこれあり、自然と地高にも相成り候節、御願いの筋これあり候とも、傍示杭よりうちの儀ハ、猟師町において差し障り候筋曽て御座なく候、御定めの傍示杭より少しにても築き出しこれあり候はば、相障り申し候
と、双方が確認して事件の一応の解決をみた。以後たびたび歩行新宿と北川宿では、川口付近の付洲の埋め立ての出願が出されたが、すべて猟師町の了解のうえで、川幅が二〇~二五間(三六~四五メートル)の確保が条件となり、加えて猟師町の海側えの埋立てと抱き合わせで許可を受けたのである。そのなかで一貫して主張されたことは、猟師町の漁業操業上の便ということよりも、水災または海難事故発生に対し、救助船を仕立てて御船手方に助力するという、船役義務遂行であったし、同時に目黒川の水防ということが優先されたのである。なお猟師町の築出し工事は、明和五年(一七六八)安永三年(一七七四)の両度行なわれ、そのあとは嘉永六年(一八五三)に、品川台場築造(第八章台場建設の項参照)に際して、目黒川の川口の付替工事が行なわれ、二宿と猟師町間に結ばれた協定のこの原則は破棄された。