中・下流地域の水防対策

1098 ~ 1099

下流川口付近の護岸と川幅確保による川浚えは、右のような経過によって幕末にいたったが、護岸のないしかも土手で築いた堤防すらない中流地域はどうであったか。さきの猟師町の出願にもあるごとく、川口から南・北品川宿と居木橋村の境界辺までの区間は、川筋ぎりぎりまで住居や田畑などがあり、耕地や宅地をせばめられるとの理由で、水防土手を築くことは許可されなかった。

 しかしながら大風雨のたびに出水の被害にあっていたので、土手を築くことはできないが、なんらかの防備をしなくてはならない。そこで事前の策として考えられたのが川浚えである。中・下流の沿岸諸村では、川岸に生いしげる竹木や雑草を払い、ときには川岸にたまっている堆積土砂の浚渫で、水流を改善しようと努力した。

 史料の制約により天保以前のことは不明であるが、つぎの一史料によって川浚えの実体をうかがうことにする。天保四年(一八三三)四月に、品川三宿・猟師町・二日五日市村・居木橋村・大崎二村・桐ケ谷村・谷山村(ややまむら)の十ヵ宿村が川浚えの協定を結んだ。

近ごろ目黒川がたびたび出水して、川付の田畑の作物が水腐れになったり、また川の近くにある屋敷は住居まで浸水して大変困っている。そのために目黒川の左右に繁茂している竹木を伐り払い、付洲の分は切り落し、水の流れがよくなるようにしたいと時おり相談してきました。こんど川付の村々一同が集まって評議し、具体的に竹木の苅り払いの方法をつぎのようにとりきめます。

と前書して七ヵ条の申し合わせ条項を羅列しているが、そのおもなものを二、三拾うと

①川付の場所において、出水のときに水がたまって流れの障害になる竹木は、地所の持主が早速伐り取ること。もしその土地が無人である場合は、川沿いの宿村より人を出して伐りとるようにし、そのときは雇賃を徴収すること。

②苅り払いをするときは宿村の役人が出て差図するので、地主はもちろん人足に出る人も、その人の指図通りにすること。

などを互いに取りきめ(『品川町史』中巻)、この協定にもとづいて第一回の川浚えが、四月十日より開始された。以後はこの協定にしたがって、宿村が共同して川浚えを行ない、目黒川の水防対策に心がけた。