昔から火事は江戸の華といわれているように、江戸のどこかでつねに火災は発生している。
もともと日本家屋は木造で、しかも屋根は茅ぶき・板ぶきなので、焼けるにはもっとも好条件で、いわば紙製品と同じである。それに消防施設も現在のような諸機械が完備しているわけでもないので、ひとたび燃えあがれば、かならず大火になる。ことに品川区は江戸の隣接地域なので、江戸府内でおきた火災でも延焼またはとび火などで焼けたり、また区内にも宿場町などを抱えているので、火災はどこかでおきていた。
ことに江戸に町火消組合ができた享保三年(一七一八)には、品川は朱引外としてこの組織からはずされていた。のち元文三年(一七三八)に番外として、新吉原・内藤新宿・千住などとともに品川もこのなかに加えられたが、しかしあくまでも朱引外(江戸の府外)であるために、ひとたび品川区内が火事になったとしても、江戸の火消組は手助けにきてくれることがないので、地元の少数の手で消さなくてはならず、自然と火事は大きくなるばかりであった。
朱引外 朱引とはもとの意は朱にて線を引くことであるが、江戸時代の絵図面に、府内と府外との境に朱線を引いて区別したことより転じて、府内外の境界を意味するようにもなった。たとえば『遊歴雑記 拾五』の「東海道品川の駅品川寺」の項に、文政四年(一八二一)正月十日未の下刻(午後三時)
新宿の入口より出火すべし(ママ)、海晏寺のあなたまで焼亡しける。元より魔風強く、殊には江府の火消人足一同朱引外故、構はねば風に任て焼け広がり、近来の大火なり、
と記している如く、府外と府内の区別を地図の上に朱線を引いてしめし、これよりは朱引外であるということを明確に区別して、火事の場合など、江戸火消組の活動外の地であることをあらわしている。
右のような諸事情も手伝って、区内より発生した火事はもとより、区外よりの延焼により品川宿がほとんど焼失する例は、江戸時代を通じても数度ならずあった(章末の災害年表参照)。江戸期を通じて、最大の火災とされる「明暦の大火」(一六五七)にも品川宿はもちろん延焼により焼失しているが、降って元禄十五年(一七〇二)二月二十一日にも、「四谷新宿太宗寺の後ろの百姓家より出た火は、青山より麻布御殿を焼き、さらに品川御殿に移って品川宿にて鎮る」(『柳営日次記』)と大火があったことが記録されているが、地元の『南名主文書』には
品川新町口(新宿)よりさめむら迄十五町(約一・六五キロメートル)焼、作水町(サミズ、すなわち今の鮫洲のこの)迄焼、品川御殿焼、囲と天王残、東海寺本堂と山門残、妙国寺・海晏寺此外寺々残らず焼る。(第二五七図参照)
と品川宿のおもだった寺院の大半が焼亡していることがわかる。この火事で有名な品川御殿も、また妙国寺の五重塔も焼失し、以後再建がなく今日に至っている。その後正徳二年(一七一二)二月廿三日、享保四年(一七一九)二月十三日と大火はつぎつぎと発生するが、なかでも延享二年(一七四五)二月十二日世に「六道火事」といわれた大火は、正午(十二時)ごろに青山千駄ケ谷辺より出火したが、
乾(いぬい)風(西北風)烈しく吹て、青山久保町・長者丸・算盤(そろばん)橋・桜田町・白銀(しろがね)御殿・麻布日ケ窪・一本松・善福寺門前・仙台坂・古川辺まで焼払ひ、其火三田寺町へ飛移り、白銀台町堀端、神明社・氷川(ひかわ)社焼失す、魚籃(ぎょらん)観音辺伊皿子(いさらご)・三田(みた)一丁目、追分より火飛散り、大円寺并組屋敷一面焼失、芝大仏前泉岳寺悉く焼け、二本榎・高縄・品川台・御殿山の下品川新宿一円に焼亡す、海晏寺門前に至て焼止る。凡そ長さ青山より品川まで一里半(約六キロメートル)許(ばか)り、横十五町余(約一・七キロメートル)なり、大名・御旗本屋敷百廿ケ所・寺社百十カ所・町家数万軒焼失す(『武江年表』)。
とあるが、これは火元が青山六道辻から出火したので、六道火事と銘名されたほどの大火である。この火事のときは品川宿の半分が焼失したのであるが、区内での焼失状況をしりうる具体的な記録は見当たらない。