文政の大火

1101 ~ 1102

資料的に判明するのは、やはり区内での出火であるが、なかでも文政四年(一八二一)正月十日の火災は、火元が北品川宿内であって、十日の午後四時に歩行新宿旅籠屋甚助宅より出火した火は、西北風にあおられて火勢をまし、南北両側町家ことごとく焼失して、夜の十時ごろようやく大井村内御林町弐町目に至って消え、往還通り長二二町余(二・四キロメートル)におよぶ大火になった。この火災によって御高札場をはじめ、南北品川宿の問屋場(二カ所)・貫目(かんめ)御改所(二ヵ所)を焼失し、脇本陣二軒・旅籠屋六七軒をふくむ合計一、三八七軒が類焼した。文政ごろの総家数は一、六〇〇軒だったので、約八六%が焼失したことになる。なおこのときには島津筑後守忠徹(佐土原藩)・鶴八郎左衛門(川船改役)狩野伊川(絵師)の御抱屋鋪と南品川鎮守社・養願寺・正徳寺なども類火にあっている。

 つづいて文政六年(一八二三)正月十二日にも飛火によって東海寺門前より宿場町の両側を焼き、さらに橋を越して西南に焼け広がり、延長一里余(約四キロメートル)にも及んだと『遊歴雑記』に書かれている。

 天保十三年(一八四二)の三月廿二日に北品川稲荷門前より出火した火は、こんどは府内に延焼し、芝田町にもえ移って、家数三九一軒のうち三〇二軒を焼失、またもや脇本陣一軒と旅籠屋二六軒を失っている。