幕末に至って最大の大火といえば、嘉永五年(一八五二)七月廿八日に発生した南・北両品川宿の焼亡である。
すなわち七月廿八日の真夜中九ッ半(午前一時)北品川宿旅籠屋佐助宅より出火して、北品川宿二三七軒、南品川宿三九三軒、品川歩行新宿二軒、二日五日市村四六軒、合計六七八軒が全焼した。このときの様子を「南・北両品川類焼一件留」(資三二四号)によってみると
折節東北風がはげしく、南北品川・歩行新宿御伝馬歩行役のもの、ならびに旅籠屋どもそのほか宿内地借り・店借りのもの都合(約六百軒)焼失仕り候処、烈風ニて暫時一円焼け募り候事故、家財諸道具は勿論、衣類等に至るまで持ち退き候間合いこれなく、漸人命相助り立退き候迄
と火の勢のすさまじさを物語っているが、焼失家屋のなかには、南品川宿の嶋津淡路守忠寛(佐土原藩)御抱屋鋪約七〇坪(約二三五平方メートル)や狩野勝川御抱屋鋪約五〇坪(約一六八平方メートル)が含まれ、北品川宿の御高札、南品川宿の問屋場・貫目改所など品川宿機能の大半を失った。そのために取あえず脇本陣弥三郎方を借り受けて、人馬御継立の事務を行なったが、さっそく諸交通が渋滞するを理由に、本普請が許可になるまでの仮普請ができるよう拝借金を願い出て、南北両宿で合計五一四両三分、永一八三文二分を拝借して宿の復興をはかった。
以後慶応の薩摩屋敷焼打事件は例外としても、失火を含み数度の大火に見舞われているが、いずれも消火作業の不手際もともなって、大火にならざるを得なかった。