安政地震

1106 ~ 1109

安政二年(一八五五)十月二日、折から霖雨(りんう)が一日じゅう台地をしめらせ、空はどんよりとした雨雲震でおおわれていた。夕方からその雨もやっとやみ、江戸の市民が深い眠りにつきはじめた夜の十時ごろ、にわかに大地がゆれはじめ、夜明けまでに余震をふくめて、実に三十余回という烈しい震動に見舞われた。元禄以来の大地震であったうえに、時刻もちょうど夜中、暗黒の恐怖と不安におののいた市民は、続いて発生した火災のために、逃げ場を失い、その惨状は目をおおうばかりであった。震源地は今の江東区の東亀井戸から、千葉県の市川にかけての四里四方(約一五キロメートル)といわれているが、火災や倒壊のための死者約四、〇〇〇人、倒壊家屋が土蔵を含めて約一万五〇〇〇戸にのぼっている。元禄十六年(一七〇三)のときが、小田原より品川まで死人約一万五〇〇〇人とあるので、約三分の一の被害であるが、被災地が町家が多かったために、損害は甚大なものであった。当時の様子を書いた『安政乙卯武江地動之記』には

品川宿駅舎聊傾るもありしが潰家なし、怪我人も亦なしとぞ、妙国寺題目石折る、品川沖二番の御台場、建物潰れて土中へ埋込出火あり、会津侯(松平容保)藩士此所にありて、およそ死するもの五十人、僅かに助りしもの海を渉り、辛うじて逃げのびし由、幸にして合薬には火気移らずして止ぬ、此内の火四日程焼けて臭気甚しかりしとぞ。

と新設間もない二番台場(第八章幕末の品川参照)の被害状況を述べている。品川区内における被害は、三日後の五日に三宿名主より代官所への報告によると、

 家数一、六九一軒

  内 半潰家  一四軒

    大破家  一、四二二軒

    小破家  一六一軒

このほかに、本陣壱間・脇本陣弐間・旅籠屋九二軒・土蔵二一七ヵ所・問屋場一ヵ所が大破している。しかしこの三宿の被害をのぞくと、農村部においては、品川区内よりはむしろ、周辺地区の村々に被害が多くでているようである。たとえば三大森村寄場三十五ヵ村組合がまとめた「地震災ニ付破損家怪我人其外取調書上帳」(「伊藤家文書」)によって抄出してみると、(第77表)周辺村落の大森・不入斗(いりやまず)・下袋の各村では、破損家屋があって、それに死者も出しているが、品川区内では中延・桐ヶ谷などの村々で数軒でているほかは、小山村の二〇軒が例外である。さらに品川区の西隣接の下高輪村では、三五軒と多くなっている。これらは海岸に面している地区が比較的多いが、俗里にいわれる〝地震の道〟であったところが、被害甚大であったとも考えられる。

 第77表 安政地震被害状況
被害数 家数 破損家 土蔵大破損 即死人 怪我人
村名
箇所
東大森村 468 41 25 1 1
北大森村 262 35 9 0 0
西大森村 305 32 12 0 0
不入斗村 197 20 2 0 0
下袋村 68 4 0 0 0
桐ケ谷村 17 1 0 0 0
中延村 63 3 0 0 0
小山村 65 20 1 0 0
大井村 662 0 0 0 0
下蛇窪村 51 0 0 0 0
上蛇窪村 36 0 0 0 0
戸越村 141 0 0 0 0
上大崎村 24 0 0 0 0
下大崎村 49 0 0 0 0
居木橋村 39 0 0 0 0
二日五日市村 64 0 0 0 0
下高輪村 88 35 3 0 0

 

 なおこの大地震に際して南品川では、避難所として荏川にある薩摩屋敷のなかに、二間半(四・五メートル)に二〇間(三六メートル)の菰張(こもはり)小屋(約五〇坪=一六五平方メートル)二棟を建てて、被害者の収容にあたった。幕府でも松平定信以来の七分積金による町会所の米金を支出、救小屋を設けて市民の救済に助力した。

七分積金  幕府が窮民の救済と低利資金融通との目的をもって実施した積立金制度である。町費を節約して、年間予算より余剰金をつくり、壱分は地主に返金し、二分を町費の予備費に、七分を町で不時の災害の救済金にあてるために積立てたもの。