昔から大爆発を繰りかえしていた冨士山は、近世に入ってからもなおその活動を続けていた。寛永三年(一六二六)の噴火では降灰は江戸府内にまで達したといわれ、元禄十三年(一七〇〇)、宝永四年(一七〇七)と続いて大噴火が起きた。宝永四年十一月二十三日の大噴火は、有名な宝永山まで隆起させて、土砂石礫をふらすこと近国二〇里(七八キロメートル)四方に及ぶとまでいわれているが、江戸府内にあっては、「二十日頃より曇天にて寒気殊に甚しく、二十三日午前に至りて、震動雷鳴の如く頻りなりしが、既にして黒雲空を覆ひて灰をふらせたり……夜に入るに及び、灰下ること雨の如く、且つ終夜震動して窓・障子為めに亀裂す、総じて昼八ツ時(午後二時)過よりは、天闇(くら)きこと夜の如く、家々皆な灯を点じ、市上復た往来するものなし。適々(たまたま)通行せし人は砂に打たれて目眩し、或は負傷せしものあり。降灰の堆積せしは凡七・八寸(二四センチメートル)、処によりて一尺(三〇センチメートル)余に至りし」(『翁草』)と、約三〇センチメートルも降灰が積もったということは、今日では想像もつかない現象である。当然作物は枯れてしまったであろう。この驚異的な降灰も、『元禄・宝永珍話』によると「十二月上旬より留り申候」とあるので、約二ヵ月間続いたことになる。しかしこの恐しい冨士山の大爆発もこの年を最後としてなくなり、日本の表徴として美しい姿を見せてくれるようになったのである。