江戸時代から今日に至るまで浅間山は活溌な活動をし、慶長十年(一六〇四)か享保末年(一七二七)にいたる間に十二、三回の噴火があった。その後しばらくは静止していたが突如として天明三年(一七八三)七月六日に大噴火があった。「七月四日頃より毎日雷の如く山鳴り次第に強く、六日夕方より青色の灰降、夜中より翌七日の朝大いに降、鳴る音強く、昼過になり掛目(目方)廿匁(七五グラム)より四十匁(一五〇グラム)位迄の軽石の如き小石降り、更に歩行ならず、七ッ時頃(午後四時)より灰降出し、暫時闇夜の如く人顔も見え分らず……然るに二時(四時間)ばかり過て空晴るゝと見えしが、又浅間のかたに空へ火の玉飛上り、暫くありて小石降り、鳴音強く、戸障子はずれ、夜寝る事あたはず」の状態であった。江戸府内では降灰を感ずるくらいで、ましてや火山岩の噴出で、家屋人畜に被害を出すような事はあり得ないが、しかし津浪注意報は出たらしく「硫黄の香ある川水中川より行徳へ通じ、伊豆の海辺迄悉く濁る。依て芝浦・築地・鉄砲洲の辺にては、今にも津浪起るとて大に騒動し、佃島の男女まで残らず雑具を運びて、陸地に居る事およそ二日なり」という警戒ぶりであった。