安政五年(一八五八)五月、米艦ミシシッピー号が那覇から長崎の出島に来航したあとで流行したコレラは、同年七月下旬には東海道筋を経て江戸に伝播し、江戸庶民はさんざんな目にあった。なかでも江戸の入口である品川は、八月から九月なかごろにかけてもっとも流行し、一家中で枕をならべて寝ている姿を、あちこちで見かけるほどであった。
コレラ(オランダ語)は普通暴瀉(吐いて吐いて死ぬの意)病といったが、コロリ、コロリと死ぬので一名をコロリともいった。このコレラ流行の最中に十三代将軍家定(七月四日)がなくなった。死亡原因について「ちまたではいろいろの風説があれど、これは流行病の暴瀉病であった。暴瀉病はわが国の流行の最初のため、医師ははじめ病症がわからなかったが、江戸で流行し、これがために多くの人が死んだ。この時に至り医師熟考すれば、先のわかり難き病状はやはり暴瀉なり」(『嘉明年間録』)と報じているが、将軍の病気でさえ治療法がわからなかったので、幕府はここであわてて、流行病に対する予防と治療法を、同年八月二十二日に「老中達」として通達を発した。
このせつ流行の暴瀉病は、その療治かた種々ある趣に候えども、そのうち素人心得べき法を示す。あらかじめこれを防ぐには、すべてその身を冷すことなく、腹には木綿を巻き、大酒・大食をつつしみ、そのほかこなれ難き食物を一切たべ申すまじく候、もしこの症催し候はば、寝床に入りて飲食を慎み、惣身を温め、左ニ記す芳香散といふ薬を用ゆべし、これのみにて治すも少なからず、かつまた吐瀉甚しく、惣身冷ルほどに至りしものは、焼酎壱、弐合の中に龍脳または樟脳壱、弐分を入れ、あたためて木綿の切(布)にひたし、腹ならびに手足へ静かにすり込み、芥子泥(からしでい)(からしを水でねったもの)を以て、下腹ならびに手足へ小半時(こはんとき)(一時(ひととき)の四分の一=三〇分)ぐらいにたびたび張るべし。
調方の仕方
芳香散 上品桂枝(肉桂の枝)・益地(えきち)(竜眼肉)・乾姜(ほしたショウガ)(等分細末)
右調合いたし、壱、弐分づつ時々用ゆべし。
芥子泥 からし粉・饂飩粉(等分)右あつき醋(す)にて堅くねり、木綿の切にのばし張(は)り候事、ただし間に合わざる時は、あつき湯にて芥子粉ばかりねり候てよろし。
またの法
あつき茶にてその三分の一焼酎を和し、砂糖を少し加へ用ゆべし、ただし座敷を閉(とじ)、布・木綿などに焼酎をつけ、しきりに惣身にこするべし。
ただし手足の先ならびに腹冷る所を、温鉄または温石(おんじやく)を布につつみて、湯をつかひたる如き心持になるほどこするもまたよし。
右はこの節流行病甚しく、諸人難渋いたし候に付、その病にかかわらず早速用ひ候はば、害なき薬法、諸人心得として、急度相違なく相達し候事。
このように幕府は流行病の予防法と、素人治療法を説いて廻ったが、病人は続々と発生し、死ぬ人はあとをたたず、葬儀屋のごときは棺の製造が間に合わず、普通の桶屋や大工を雇ってつくらせたなどの記録も残っている。
このおそろしいコレラにかかって死んだ人はどのくらいであったろうか。品川宿近辺の例を「異病流行ニ付諸書上下書類」(『品川町史』中巻)によってみると、八月朔日より九月五日までの間の死亡者数は、南品川宿三九人男一九人女二〇人、北品川宿で五四人男一七人女三七人、歩行新宿五三人男二二人女三一人、猟師町二六人男一七人女九人、で、合計すると品川宿内でわずか一ヵ月で一七二人が死亡している。この流行病は万延元年(一八六〇)にややおとろえ、文久元年(一八六一)にやっと消滅した(『虎刺病流行記』)。
なお安政五年七月より九月二十三日までの五五日間において、江戸市中の諸寺院よりおのおの取り扱った死亡者数の報告書から、品川分を抄出してみると、第78表のとおりである(『日本震災凶饉攷』)。
寺名 | 死亡人員 |
---|---|
人 | |
了真寺 | 240 |
宝塔寺 | 241 |
妙国寺 | 141 |
海蔵寺 | 230 |
海晏寺 | 63 |
品川寺 | 230 |
常行寺 | 260 |
本営寺 | 76 |
長徳寺 | 143 |
正徳寺 | 160 |
蓮長寺 | 260 |
妙蓮寺 | 160 |
願徳寺 | 240 |
東海寺 | 204 |
清徳寺 | 131 |
合計 | 2779 |
合計すると約七、八〇〇人であるが、江戸全体の死亡者届け出分は、その年の十一月廿一日寺社奉行松平右京亮輝聴に差し出した「江戸暴瀉病死亡人員調書」によると、身分や男女に関係なく惣人数二万八四二一人、うち土葬した者九、一二三人である。これらの数字を照合すると、前出の品川分死亡人員は、江戸市中分の約四割に達する。江戸の表玄関だけに、対人口比はかなり高率であることが証明される。