罹病者の救済

1114 ~ 1116

コレラの猛威によって続出した病人対策であるが、品川三宿内では、高持や身元相応な人々に呼びかけて助力金を募集し、その集めた金で死亡者に弔慰金を出したり、また罹病者に正気散などの薬をほどこしたり、一家の柱を失った家族や、働くことのできない人たちには、一軒ニ付白米五升づつ与えたりした。なかには歩行新宿の食売(めしうり)旅籠屋善次郎のように、霊妙丹を八月二十日より二十八日まで七、五〇〇服を差し出したなど、かならずしも現金によらず現物給与する例など、いろいろの救済を積極的に行なった。

 ちなみにこの募金方法はどのように行なわれたか。実際例の二、三を利田家文書(立正大学蔵)によってみることにする。コレラ流行の真っ最中の九月に、歩行新宿名主庄十郎が小林藤之助御役所宛てに提出した届書には、つぎのように報告されている。

 まず宿内での高持百姓茂兵衛や、食売旅籠屋を経営している忠左衛門などが、合計金額七二両三分を醵出して、困窮人二七五人と、もより町方御支配の善福寺門前一六人、合わせて二九一人に金一分づつ施行した。またこれらの人たちは、宿持歩行人足七〇人に対しても、一人につき銭五〇〇文を出金するなどしたが、醵出金額の内訳は上記の通りで、平均し二両前後である。

第79表 罹病者救済募金
醵出額 人数
15両 1
5両 2
4両 2
3両 2
2両3分 2
2両 16
1両2分 1
合計 78両 26

 

 さらに名主庄十郎以下一六人によって、宿内死亡人に金弐分ずつと、罹病人に金壱分ずつ助力のために三二両募金し、南品川猟師町の困窮人一四二人にも、壱人につき金一分ずつほどこすために三〇両、また自身番屋前で正気散の煎薬を配賦した(金弐両分)などが報告され、三宿を合計すると金五六一両と白米七石であった。このなかには、北品川宿食売旅籠屋(岩槻屋)佐吉のように、一人で金二九四両三分二朱という高額を醵金して、三宿内の東海寺・清徳寺・稲荷門前・正徳寺・養願寺・善福寺の六ヵ寺門前困窮人一、二三五軒の人々に助力した例なども含まれている。

 なおこの報告書を提出したのち、十一月には、前記割当てられた以外に、分限によって別段手当金を供出した奇特な人たちがあった。

 すなわち品川歩行新宿の旅籠屋金次郎は、金二四両一分を宿内の地借・店借の内、困窮のもの九七人に金一分ずつ、また同人が自分持地所住居困窮人六五人にも金一分ずつと、死失の者七人へ銭一貫文ずつ増手当として渡し、さらには金八両を、同人が平常懇意にし、出入している者三二人に前同様一分ずつ渡し、合計で金四八両二分、七貫文を寄付している。また別の例では同宿の旅籠屋のいなは、金次郎同様に持地六ヵ所で、八六軒のものに一ヵ分月(八月分)の地代金の支払いを免除した上、壱軒に金一分ずつの見舞金を出したり、また宿内の困窮者一二八人に金一分ずつの助力金など、惣計で金一三〇両三朱、銭七貫九〇〇文に達する多額の寄付をしているなどがある(「利田家文書」)。

 このように宿内での有力な商人または高持百姓などが、割り当てそのほかの方法で、強力な「たすけあい」運動をおこし、コレラ流行の大難艱をのりこえたのである。

借金を娑婆へ残しておきざりや

         迷途(冥土)の旅へころり欠落(かけおち)

此たびは医者も取あへず死出の山

         もみじの旅路神のまじない

 ちまたではこのような狂歌がのこっているように、医者にもかかれず、疫除けの祝詞(のりと)やまじないをして、病をなおそうという人や、節分のように豆を撒いたり、また凶年を早く送る歳替りとして、正月のように門松をたてる家、天狗の力をかりれば疫病がさけられるというので、羽団扇(はねうちわ)に似せてやつでの葉を軒端(のきば)につるす人など、周章狼狽ぶりは目に余るものがあった。苦しいときの神だのみといわれるごとく、藁をもつかむ気持で、いろいろの迷信を信じて、恐怖と困窮をいかにしてのがれることができるかと、毎日を不安な気持で過ごしたのであった。