国書受理の決定と同時に、幕府では早速芝から品川方面に屋敷のある仙台(伊達)・高知(山内)・鳥取(池田)などの諸藩に対して、それぞれ屋敷の警備をするように、六月六日つぎのように命令した。
覚
今度浦賀表え異国船渡来に付、万々一内海え乗り入れ候義も斗(はか)り難く候間、若右様之節は、芝辺より品川最寄(もより)に屋鋪これある万石以上の面々は、銘々屋敷相い固め候心得にて罷りあり候様、急度油断なく達し置かるべく候事(『異国船渡来一件』)。
この触をうけた品川近辺に屋敷をもっていた各大名家では、にわかに、「或は鑓(やり)をとぎ、矢の根をみがき、鉄炮の玉を鋳立(いたて)、御固(おかため)の人数は日々甲冑(かつちゆう)或は陣羽織に白き鉢巻等にていかめしく出立(いでたち)、大小炮又は抜身の鎗などたずさへ、日々の往返に人の目を驚かしむ」(『花吹雪隈手迺塵』)ほどで、まさに大混乱の有様であった。
また六月八日には、江戸湾周辺村々である品川宿より本牧(ほんもく)村(横浜市)までの村々に対して、支配役所である武蔵代官斎藤嘉兵衛より各名主・年寄宛てに触を出して事件の危急をつげた。
六月二日豆州大嶋沖ヘ異国船四艘相見ヘ候由、早追(はやおい)(昼夜兼行の急行便)ヲ以テ韮山(にらやま)御陣屋御代官江川太郎左衛門様ヨリ御注進コレアリ、万一内海ヘ乗リ入レ候モ斗(はか)リガタキ趣ニ付、諸大名方ヘ海岸御警衛之儀、俄ニ仰セ出サレ、追々諸家様方御人数御出張ニ相成リ、往還筋ハ昼夜引モキラズ、早追御注進御固メ御人数追々繰(くり)出シ、武器其外継立ノ人馬夥敷(おびただしく)、又海岸付村々ハ見張・番船等差シ出シ、何トナク人心動揺容易ナラザル事件ニ付、御支配役所ヨリ左ニ御達シコレアリ、
異国船内海ヘ乗リ込ミ候儀モ斗リガタキニ付、本牧辺ヘ細川越中守(熊本藩)、大森村大筒打場ヘ松平大膳太夫(萩藩)固メ人数差出シ候、右ニ付、海辺付私領村々ヘハ其筋達シコレアリ候趣ニハ候得共、諸事差シ支エナキ様取リ斗ベク候、此触書刻付(急行便)ヲ以テ昼夜ニ限ラズ巡達シ、留ヨリ相返スベキモノナリ(『川崎市史』所収「知通公務日記」)
黒船渡来事件は、ペリーが浦賀の沖に到着して六日目の六月九日、浦賀奉行戸田氏栄と井戸弘道の両名が、久里浜に設けられた応接所で、彦根・川越の藩兵二、八〇〇余人、会津・忍の兵船一八〇艘余が警固するなかで、米大統領フィルモアの親書をうけとって、一応の落着をみたのである。この国書のなかでフィルモアは、「余が強力なる艦隊をもってペリー提督を派遣し、陛下(将軍)の有名なる江戸市を訪問せしめた唯一の目的は、友交通商と石炭と食料の供給、ならびにわが難破民の保護である」と目的を明らかにしていた。
国書を手交した米艦は「すみやかに帰国すべし」という日本側の要求をしりめに、また艦首を江戸にむけ、浦賀水道より金沢・川崎沖へと進み、その翌十日には羽田沖より品川近くにまで進んで湾内を測量し、また日暮れには海上で大砲を放ったりしたが、やっと十二日に江戸湾を出航し琉球へ向かって退帆した。幕府はすぐさま非常警備体制を解いたが、この間の幕府の狼狽ぶりはいうまでもないが、一般市民も老幼婦女を避難させたり、全く戦時中さながらの右往左往の態で、十二日の無事の帰帆で安堵の胸をなでおろした。
アメリカが早く帰ってよかったね
また来るまではすこしのあいだ
日のもとやまだちやるめる(チャルメラ)もふかぬまに
とけて帰りしあめりかのふね
しかしこの予期せぬ黒船の渡来で、幕府の軍事力の劣勢が天下に暴露され、開国攘夷論の再燃となり、世の中はにわかにさわがしくなってきた。