まず幕府は六月十八日付で、海防掛・若年寄本多忠徳に海岸巡視を命じ、同時に旗本の石河政平・松平近直・鵜殿長鋭・大久保市郎兵衛・堀利忠・竹内保徳・松平恭直の七名に、本牧前と対岸の久津間新田を結ぶ江戸湾内海の浅深測量を実施させた。また三浦半島の明神崎に西洋風台場を構築し、さらに亀甲〓台場を増築、見魚崎にも台場を新設するなど種々の海防施設の強化につとめたが、なかでも海岸巡視の結果報告された、品川沖台場計画案の答申が重要視され、洋式兵術をおさめた韮山代官江川太郎左衛門英竜の献策によって、幕府は外夷をむかえうつために、品川沖に一一ヵ所の台場をもうけて大筒(おおづつ)をそなえて、撃攘しようという結論に達した。しかし御台場の建設によって、実際に外夷を防衛できるかどうかは、幕府内部にも異論が多かった。
同年九月二日に田中藤十郎や海老江門平などが井伊直弼に宛てて、「品川沖へ一〇カ所余も砲台御築立の様子なれども、勿論深き御主意があってとお察しするが、この品川沖砲台は敵艦を撃攘し難く、且つ莫大な費用をかけてもその効はないであろう」(『大日本維新史料』「井伊家史料三」)と上申していたことや、後日に勝海舟が、
「幕府の当局者が江戸の人心をしずめるためにやったことであるから、地理を考えず、築造の方法がよくなかったのも、精査する時日の余裕もなかったためである。」とその失敗を指摘しているように、緊急非常時下に建案され、規模からいっても今の後楽園球場の一~三倍もあろうという島を、海の中に、しかも一年間で一一ヵ所築こうというのだから、未曽有の至難な建設事業であったことは当然である。
このほかにも異国船渡来についての撃退策は、各方面より進言されていた。たとえば同年の六月、儒役林大学頭家の塾長河田八之助は、
まず軍艦をつくることが先決問題であるが、その費用は一艦五、六千両と聞くが、とても莫大な金額であるので、諸大名につくらせたり、またその費用徴収には江戸は勿論、京都や摂津の町人に御用金を命ずること。しかしこれも急には間に合わないので差当り黒船を富津(ふっつ)より内へ入れないようにするのが肝要である。それには大材を現地に集め、大筏(いかだ)を組み立て、大津村より猿嶋、富津洲まで一里余之所をこの大筏にて横切り、渡橋のようにし、平常は通船のところだけ明けておいて、異船が来たらば直ちに塞ぐようにする。この大筏は壱尺角位の材木を四ツに重ね、幅は拾間位にして藤蔓(ふじつる)によってしっかり繋ぎ、両はじに船を数十艘つけて筏の上に大砲を構え置き、西洋の渡台場の如くにつくって、上に重りをおいて大材木を常に水に沈み居る様にすれば、焼き払うことも不可能である。この様な方法で迎えうてば五、六年するうちに、軍艦もできるであろう(『鈴木大拙雑集』)。
と建言したり、また民間人のなかでもいろいろとアイデアを建策して上申してきた。なかでも後世につたえられるものの一つに、江戸新吉原江戸町二丁目久喜万字屋遊女渡世藤吉は、八月十五日に町奉行所へ
私の先祖は海賊といわれる九鬼靱負で、異国船渡来につき、私共に特別のはからいをもって漁船一千艘を許可して下されば、冨津御台場の外三里隔ったところで漁業し、夷国船を見つけたなら、すぐに夷国船に近づいて魚類などを馳走し、日本国内へ入いることのむずかしさを話し、自分たちが入国の斡旋をしてやる様にくどき、まず夷国船に乗り込んで酒宴を興し、その間に火薬へ火をつけて爆破すれば即時に勝利する。此方の者共も過半数の焼死は兼て御国恩の為と覚悟します(『大日本史料』「外国事件留」)。
と今の人が聞いたら一笑に付するような馬鹿げた話を真剣に建言したのである。