米艦が去って二ヵ月後の嘉永六年(一八五三)八月、御台場の具体的な建設事業がはじまった。まず八月二日に、老中阿部正弘より海防掛の松平近直・川路聖謨・竹内保徳・江川英竜四名にあてて、
内海え御警衛御台場御普請などの儀、急速に取り掛り候様仰せ出され候、追々はそれぞれ掛りも仰せつけられ候えども、容易ならざる御用筋、いかにも大業の儀につき、取りしらべ方など一ト通りにては行きとどけまじく候間、いずれも引き続き取り扱い一同精力をつくし、いずれにも成功いたし候様相い心得らるべく候、右御台場取り建て方、かつ据えつけ候大炮鋳立ての儀は、江川太郎左衛門え引き受け仰せつけられ候間、御台場ならびに御筒貫目・挺数など、存念一杯に取りしらべ、見込み候趣、早々申し聞け候様致さるべく候(『東京市史稿』)。
と、御台場建設に対する緊急指令とその具体案の提出方を命じたが、早くも翌三日には御台場御用掛りより、御普請仕立方について、老中宛てに左のように上申した。
江戸内海警衛御台場、そのほか御普請御入用積りの儀、御遣い方相いなるべく諸辺は関東筋御材木御遣い方にいたし、石類は相州三浦岩・伊豆石など伐り出し相い用い、右仕立方の儀は、樋橋切り組方棟梁ならびに江戸市中のものども、または在方村役人など、その筋を相い心得え、仕立方相いのぞみ候ものどものうち、人物身元など相い撰び、引き請け取りはからいさせ候様仕べく候えども、如何にも大業の御普請にこれあり、御作事方・御普請方・小普請方棟梁共の内には、海面石垣築き立てなどの儀相い心得え候者もこれあるべきやに付、右棟梁ども呼び出し、保ち方の工夫などそれぞれ見込みをも相い尋ね合わせ、考え仕り候様にとりきめ、時宜により御入用の積りも仕らせたき旨、私どもより断わり次第、さしつかえなく差し出し候様、御作事奉行へ仰せ渡し下さるべく候(『財政経済史料』「内海台場御用留」)。
このような経過を経て、品川台場構築のための急速な具体案や準備が進められた。