構築規模

1135 ~ 1141

品川御台場の最初の構築計画は、一一カ所の島を品川沖の海中につくることであった。まず全体の構築規模をみると、

 次図の埋立坪数を合計すると、土砂が拾万二四五八坪四合、三浦土丹岩の壱~弐尺(三〇~六〇センチメートル)より弐~三尺(六〇~九〇センチメートル)までの石、大小とりまぜて弐万一五三六坪四合、三浦石が三、五六〇坪分必要であり、全体で拾弐万七五五四坪八合(約四二ヘクタール)の体積坪数となる。平面積の実測坪数が現在わかっているのは、第一番台場一万〇二七六坪(三ヘクタール)、第三番台場の九、〇六三坪(二・九ヘクタール)、第六番台場が五、八六〇坪(一・五七ヘクタール)、第四番台場が五・八一五坪九三(一・五六ヘクタール)である。完成した六ヵ所の総面積は約四万七〇〇〇坪(一二ヘクタール)といわれている。いま後楽園球場の広さが一・一七ヘクタールとすれば、約一〇倍以上の尨大な広さで、しかも配置図のように海岸より約二〇町から四〇町(約二~四キロメートル)ぐらい離れた海面に、一島の面積が小さいものでも約一ヘクタールの五角形または六角形をし、満潮面の深さが約三~一・八メートルのところに築いたのである。


壱番弐番


三番


四番六番小六方


五番


七番八番九番拾番拾壱番

 建設方法はヘンケルベルツの築城中にある、間隔建堡中のリニー式を採用した。

現在ほぼ原型を残しているのは、第三台場と第六台場の二基だけである。第三台場は東京都の史蹟公園として、第六台場には陣屋跡があり、また東品川一丁目にある台場小学校正門内側には、御殿山下台場の碑が建てられている。第四台場の石垣の一部は東品川三丁目(旧天王州町)の東北隅に僅かに面影をとどめている。なお第四台場は工事途中で打切られてしまったので、一名を「崩れ台場」ともいわれたが、のちには造船家の緒明菊三郎氏が、ここに造船所をつくったので、「緒明台場」とも称せられた時期がある。しかしいずれも東京湾改修工事のために除去されてしまって、その姿をとどめていない。


第269図 第三台場の現状


第270図 大正7年第三台場内部の図


第271図 壱番御台場図