構築費用

1141 ~ 1146

構築に使用した総額は、幕府勘定組頭後藤一兵衛が安政四年(一八五七)八月十三日に、いちおうの総決算額として「内海御台場御普請仕上御入用仕訳書付」という書類を提出している。これによってみると、「御下知済合金七拾八万九千八百五拾九両壱分 永六文五分」であったのが、実際の仕上金合計は金七五万〇二九六両、永一〇八文三分とやゝ予算額より減少している。これは途中で第七・八・九・一〇・一一台場の五カ所が取りやめになった水中埋立費用が約二万六〇〇〇両と、用意金の遣料の残りが約四、〇〇〇両、さらに全仕上減九、〇五六両分であって、結局三万九五六三両、永四八文二分の減となっている。そこで総決算の内訳をみると、

金三百拾弐両三分 永百四拾七文三分

  是は拾壱カ所御台場丁張御入用

金六万八千百七拾六両壱分 永百三拾五文壱分

  是は水中埋立人足賃并明俵御買上代引受人別段御手当之分

金五千四百五拾六両弐分 永百六拾六文七分

  是は芝泉岳寺前・八ツ山下・品川海岸三カ所土出場築立御入用

金拾壱万百拾八両 永百弐拾七文五分

是は品川御殿山外弐カ所山土切出船積まで人足賃并品川土出場船入堀埋立、御殿山下水抜・下水・土取跡人数撰出道築立御入用

金六万六千五百五両壱分 永五文七分

  是は砲台築立土運送船賃御入用

金拾三万七千百九拾両弐分 永九拾九文七分

  是は砲台築立並場所働人足賃其外御入用

金四万六千百四拾五両 永弐百四文七分

  是は石垣築立・下水関板仕付・外廻栗石敷・平均石垣・足代損料御入用

金五万五千百三拾七両三分 永弐百拾八文七分

  是は火薬蔵同置所番士休息所御取建・柵門・玉置所并雪隠・板塀等御取建御入用

金壱万千八百九拾弐両 永八文六分

  是は御林伐出御入用

金拾九万七千九百六拾九両 永百七拾文壱分

  是は岩石切出賃并割栗石・岩岐玄蕃石・砂利等御買上代共御入用

金壱万四千弐百弐拾四両三分 永弐拾壱文弐分

  是は石類其外諸品艀賃御入用

金壱万三千三拾六両 永弐百弐拾八文四分

是は諸小屋竹矢来門・榜示杭・桟橋仕立・取掛土出場・物揚場・前後会所入用・諸色揚卸人足賃・役々乗船賃・夜仕事に付燈火に相用候油・樽等御買上代御入用

金弐百七拾三両 永弐百八文四分

  是は井戸掘方・同上屋形流し等御入用

金五千四百三両三分 永百三拾四文七分

  是は御台場御筒据所地形・御筒揚方雨覆・野戦台仕付御入用

金三千四百六拾六両弐分 永弐拾弐文

  是は御台場前面波除抗打立御入用

金千三百六両

  是は平内大隅外弐人并品川宿役人共人足差別料之分

金壱万千五百八拾七両三分 永百八拾九文六分

  是は品川海岸御台場砲台其外築立壱式御入用

金三百九拾両壱分 永弐百三文六分

  是は同所柵・矢来・柵門御入用

金三百弐拾九両弐分 永弐百三文六分

  是は同所御台場前板橋掛渡御入用

金百九拾三両弐分 永七拾九文五分

  是は同所目黒川浚御入用

金五百七拾九両弐分 永三拾三文三分

  是は同所野戦筒据付・御筒運送并雨覆等御入用

(『日本財政経済史料』「旧政府留記」)

 以上のような使途明細書が提出されているが、結局途中見合わせとして打切った五カ所分が残金になっているだけで、ほぼ予算通りで約七五万両の費用を要したことになる。これは台場の構築費だけであって、このほかに大炮の鋳造費用も莫大なものである。比較的大きい大炮の八〇ポンド(約三六キロ)ボンベカノン壱挺つくるのに三七三両余、小さい方の弐貫五百目(約五・六キロ)のもので約七〇両近く費用がかかり、大小平均しても約二二〇両、それに大炮を据えつける大炮床台も壱挺当たり、一番大きい拾七貫目(約六四キロ)余のもので一七七両、五貫目(一八・八キロ)余大筒で九八両余となり、これも平均して約一四〇両前後の製造費が入用となる。結局大炮壱挺つくり、据えつけて発炮するまでに約三六〇両余の出費で、六ヵ所台場全体の据付台数は二六〇挺予定しているので、約一〇万両ぐらいになる。このほかにも鋳立造場や炮座など多少の費用を要する。

第80表 品川台場大炮据付台数
1番台場 65
2番台場 65
3番台場 46
4番台場 28
5番台場 28
6番台場 28
合計 260

 

筒種内訳
17貫目余御筒 20
12貫900目御筒 9
7貫700目御筒 39
5貫目余御筒 82
3貫800目御筒 21
2貫500目御筒 53
1貫200目御筒 18
5貫目蘭名ランケホーイッスル 18
合計 260

 

 なお建設業者については、入札をして請負わせた場合が多い。ちなみに水中埋立工事についての入札例を、「内海台場御用留」によってみると、御作事方やそのほかの棟梁ならびに市在の職人などのうちで、入札を希望するもので身元のよいものを撰んで参加させ、そのうちで下値段に落札する。水中埋立費の落札見積額は

一番  日積五〇日   一万五二二六両二分

二番  日積一〇〇日  一万二六九〇両

三番  日積一〇〇日  一万二三八四両

 右三カ所の請負人は御作事方大棟梁平内大隅で、八月廿一日より御普請はじめ。

四番  日積八〇日   七、三二四両 永一〇三文六分

五番  日積八〇日   五、八二三両 永三五文七分

 右の請負人は、勘定所御用達樋橋切組方棟梁岡田治助落札なり。

六番  日積八〇日   六、二八四両壱分

七番  日積八〇日   三、九八一両二分 永一六六文三分

八番  日積八〇日   四、七八五両三分

九番  日積八〇日   四、〇二四両二分 永一一六文三分

 右六・八番は、平内大隅が落札と云う共、未だ仰付られず。七・九番受負人は岡田治助が落札なり。

十番  日積五〇日   三、二九八両二分

十一番 日積五〇日   三、〇九〇両

この二カ所の請負人は、竹垣三右衛門御代官所の武蔵国葛飾郡柴又村年寄五郎右衛門と赤坂裏伝馬町壱丁目喜右衛門店嘉兵衛に落札といへども、未だ仰付けられず。

合計七万八九一二両三分余

でそれぞれの落札人が請負って工事は進められた。

 以上のような諸費用を綜合すると、台場構築総工費は概算で

金七拾六万三千八百七拾壱両弐分  是は御台場御普請御入用

金拾五万八千九百六拾三両壱分余  是は大筒并台玉共御入用

金六万三千六百五拾七両余     是は大船其外御船製造御入用

合計金九拾八万六千四百九拾一両三分余

(「旧政府留記」)

となったわけである。

 品川台場は前述の如く、最初の計画は一一カ所建設するはずで工事にとりかかり、第一・二・三番台場までが翌七年(一八五四)十二月に完成、同年(一八五四)正月にとりかかった第五・六番台場も十二月に構築されたが、以上の五番台場普請と四番岩埋立ならびに品川御殿山下海岸御台場普請に使用した費用だけでも、約一〇〇万両に近い金額になった上に、ちょうどペリー来航の直前、すなわち嘉永五年(一八五二)五月に江戸城の西の丸が全焼し、その再建費用の出費も重なり、財政上にも困難となったため、途中の安政元年(一八五四)十二月一一カ所建設予定の台場工事は中止のやむなきに至った。