国家あげての台場構築の大工事は、先に述べた工事費の総額からしても、資金面では並大ていの苦労でないことは推測される。しからばその財源は一体どのようにして調達したか、その一、二の例をあげてみよう。
まず地元品川では、嘉永六年(一八五三)十一月六日に、武蔵下総代官斎藤嘉兵衛は、廻村先である品川宿の本陣へ、村々の役人および身元相応の人たちを招集して、積極的に上納金の申し入れをしてほしいと訓諭している。品川周辺で具体的にどのくらい集まったかは史料不足のため知ることができないが、この上納金の奨励策は、たんに品川浦の人たちばかりでなく、江戸市民はもとより、周辺の村々や、はたまた遠く大阪・堺の町人などにも、資金調達のために大きな影響を及ぼしている。すなわち斎藤代官が訓諭した品川宿よりやや遅れて、翌七年(一八五四)五月廿五日に江戸の富商にたいし、「近来御用途御差し湊り、なかんずく海防の筋の御入用は、先前御見合いもこれなきほどの義、その上禁裡炎上(嘉永五年五月西の丸焼失)、すべて御用高相い重り候御場合により、此度御融通のため御用金仰せ付けられ候」と特別の訓令を発した。