大阪その他の調達金

1153 ~ 1156

江戸以外の大阪ならびに兵庫・西之宮・堺など関西在住の富商からの上納金合計額は『高麗環雑記』によると、

大坂

 銀三万五千四十三貫四百四匁七分九厘

  此金五十四万七千五百五十三両余

兵庫

 銀八百四十六貫百九十一匁一分九厘

  此金一万三千二百二十一両余

西之宮

 銀三百一貫三百九十五匁

  此金四千七百九両余

合銀三万六千百九十貫九百九十匁九分八厘

  此金五十六万五千四百八十三両余

   但 金一両につきおよそ銀六十四匁の積

 金四万二千両          堺

 

以上の上納された合計金額をみると、江戸富商から調達した上納金よりは、はるかに多額であって、東西の有力町人を合わせた金額は、実に九〇万八九二五両余に及ぶものである。これに加うるに、江戸周辺の村々からの上納金であるが、武蔵国多摩郡田無村(都下田無市)名主であった下田家の旧蔵史料によって一瞥すると、嘉永六年(一八五三)十月に、支配代官の江川太郎左衛門手代柏木総蔵・清水三郎助連名によって「外冦之儀、国家の大患に候処、近来度々異船渡来、その次第に寄り候ては、安危にも抱り候義に付、西丸御普請を始め、臨時の御出し方打ち続き折柄には候えども、莫太の御入用をも厭わせられず、江戸内海え厳重の御台場御取り建て………自然前書御備筋御用途の内え上納金願いたくとの心底のものこれあるべき哉、篤と取り調べ申し出」すべし、と廻状を出した。これに対し田無村村民は「異国船渡来に付、御備場御用途の内え上ケ金願」として出金人名前を連署して、合計金額二〇〇両二分を差し出している。

第81表 田無村上ケ金一覧
身分 名前 上ケ金額 身分 名前 上ケ金額
両分 両分
名主 半兵衛 100 百姓 長五郎 2.0
組頭 彦兵衛 10 長左衛門 2.0
太郎右衛門 3 権右衛門 1.2
次左衛門 3 長右衛門 1.2
幸吉 1.2 浅右衛門 1.2
孫右衛門 1.0 宇右衛門 1.2
杢右衛門 1.0 紋左衛門 1.0
百姓代 平左衛門 15.0 九右衛門 1.0
五兵衛 4.0 勘四郎 1.0
権左衛門 3.0 与兵衛 1.0
百姓 伊八 15.0 権左衛門 1.0
権右衛門 10.0 九郎左衛門 1.0
次兵衛 10.0 与二兵衛 1.0
忠右衛門 3.0 茂兵衛 1.0
太郎右衛門 2.0 兵三郎 1.0
合計 30人 200両2分

 

 田無村の周辺の村々でも、二一ヵ村で合計して金六八五両出しているので、江戸近辺の農村から上納された金額は相当量に達したと思われる。

 以上のように東西の有力町人や、江戸周辺の農民たちより調達した上納金は、約一〇〇万両にのぼる金額である。この調達金によって、海防策の一大スローガンのもとに、幕府の全勢力をつぎこんで着手したお台場建設も、やはり資金難は救いようがなく、安政元年(一八五四)五月、第四番台場の構築中途にして中止の止むなきにいたった。(文久三年(一八六三)五月には、第四番台場の工事は再開され、六月に一応完成した)

  つくかねの、六ッ(午前六時)よりいでてお台場の

            土ひよう(俵)かさねて島となりぬる

  高縄(輪)で、ふりさけみればはるかなる

            品川沖へできししま(島)かも

 なおお台場建設は第四番台場で中止されたが、これによって防衛策がなおざりにされたわけでなく、大炮や火薬の製造、西洋炮術による旗本の調練などは、引続いて強行された。

小山火薬製造所  品川区内では、火薬製造所が小山村(御嶽の森)にあった。この火薬製造所で、安政元年(一八五四)三月廿二日の巳刻(午前一〇時)に突然爆発事故がおこり、製造所内の水車小屋がとばされ、即死三人・重傷二人が出たと『武江年表』に記されているが、この火薬製造所の規模などの詳細は判明しない。