アメリカ船渡来によって、品川浦が脚光をあびて国際舞台におどり出た翌年の嘉永七年(一八五四)正月十四日、ペリーは再び江戸湾頭にあらわれ、二月十日から神奈川で会議がはじまり、三月三日に日米和親条約(安政の仮条約)を締結調印したが、このときの要求事項のなかに、江戸の外港としての品川の開港という事があった。なぜ品川浦を江戸の外港としてアメリカ側が選んだか。その理由はしるよしもないが、しかし嘉永六年(一八五三)六月にペリーがはじめて来航し、そして十一日まで碇泊していたこの短期間に、品川浦の海况まで入手したとは考えられない。とすると、恐らくシーボルトが日本から帰国後に刊行した『日本図』を、ペリーが見て考えたのではないかともいわれている。この「日本図」には、江戸湾の奥に江戸と品川が記載されしかも品川のところには錨地としての記号がはっきりと付されている。この図によって、あるいは神奈川より品川の方が便利であると判断したであろうと推測される。ことに江戸湾が隅田川などから流出する土砂の堆積で、絶えず澪筋(みおすじ)(航路)の泥土を浚渫しなくては、大型船の碇泊が確保できないという重大な欠陥までは判明しなかったのであろうと考えられる。
ともかくペリーお名ざしの品川浦は、幕府の緊急外夷対策として築造されたお台場が完成してからは、幕府御船手(海軍)にかわって編成された諸外国なみの海軍の根拠地として、あらたな活動を開始した。
幕府の海軍が、さきの澪筋の欠陥を承知しながら、なぜこの品川浦を根拠地として選んだか。それには
一 品川台場の外であること
一 目黒川尻に近く通船での上陸が容易であること
一 近くに良質の飲用水が豊富で、水の補給地として適していること
などがあげられよう。事実南品川猟師町や北品川宿には水屋があって、近世中期ごろ(一七八〇)から沖がかりする船に飲用水を運んで売る渡世人が三軒あったほどである。今までも「清水」として名残りをとどめている。
以上の諸条件によって、幕府海軍の根拠地となった以後の品川浦は、諸国の軍艦がつぎつぎに入津するようになった。ことに安政五年(一八五八)十一月十七日に締結された五ヵ国条約によって、神奈川・長崎・箱館の三港が開港された直後、まずアメリカがハリスを弁理公使に昇格させ、ハリスは下田より麻布善福寺の仮公館に移り、神奈川本覚寺に領事館を開いた。ついでイギリスは日本駐在の総領事兼外交代表としてオールコックを安政六年(一八五九)五月四日に長崎に派遣し、オールコックは参府の上高輪東禅寺に仮公館を設けた。これら各国公館の設置によって頻繁に外国軍艦が横浜を越して、江戸湾奥の品川沖まで進み、品川台場手前に沖がかりして、外国使臣館の館員や乗員は、バッテイラとよばれる通船で、目黒川尻から下高輪村の海岸に上陸し、陸路江戸府内へ入るようになり、ときには乗員が品川宿内へ紛れこみ、言語の不通のために、双方での行き違いもあって、しばしば乱暴狼藉事件をひきおこした。品川宿でもこの対策には非常に頭をいため、何回となく奉行所に斡施方を申し入れていた。「異国異人関係御用留(資三三〇号)」の安政六年(一八五九)六月十一日の記事には、品川宿の名主・年寄など村の代表が、代官に宛てて
当節品川沖異船碇泊中に御座候所、高輪東禅寺え止宿相い成り候異人、昼夜となく遊歩いたし、宿内え立ち入り候節は早速私共罷り出で、諸事御出役中様御差図を請け、取り計い候義ニ御座候処、今十一日夕七ッ時頃、異人五人酒給、酔狂の体ニて早足ニ罷り越し、私共宿境に出合い居り、直に付添い候処、歩行新宿飯売旅籠屋青柳屋寅一郎方え五人一同駈け入り、強勢の体ニて見世障子明け放シ、二階座敷え押し上り候故、止宿の旅人は勿論、飯売女ども周章(あわて)驚き、二階より駈け下り、旅人も逃げ退き、家内以ての外騒ぎ立て、暫時跡より町方御出役衆御壱人御越しなされ、宿役人ども一同付き添い居り、其段御役々様方え御注進申上候儀ニて、私どもえ異人只顧(ひたすら)女を出し候様申し聞け否と申し候得ども、乱妨をも致すべき躰、当惑至極に羆り在り候うち、追々御出役中様御越しに付、無難ニ引き返し候えども、右様の乱行に付、宿内茶屋・旅籠屋小前のものども悉く恐怖仕り、人気穏かならず、日夜痛心に絶えず………(後略)
と、終戦後アメリカ兵の進駐によって、日本国内の各所で見れらた光景を想い出させるような有様で、「言語は通ぜず、宥(なだ)め申すべき様これなく、至極当惑仕り候」と早急の善処方法を幕府に歎願している例が、しばしばおきていた。