3 外国人殺傷事件

1159 ~ 1160

 幕府の開港策に反対していた尊攘志士は、開港後は一切の夷狄斬るべしと非常ないきりだちをみせ、つぎつぎに外国人殺傷事件をひきおこした。まず最初は、安政六年(一八五九)七月二十七日のロシア士官・水夫殺傷事件で、夜の八時ごろ、横浜に食糧を仕入れに上陸したロシア士官二名を死亡させた事件であった。この時には、犯人らしい者が八月二十二日都筑郡吉田村(横浜市港北区新吉田町)常真寺に一泊して、神奈川表に行くと称して姿を消したということで、江戸近辺の目黒・品川方面にも手配状が廻った。さらに万延元年(一八六〇)正月には、イギリス公使館の通訳伝吉が、夕暮れ近く公使館のすぐそばで背後から、何者かに短刀で刺し殺され、また同年十二月五日の夜にはアメリカ公使館員のヒュースケンが清川八郎一派の志士に暗殺されるなど、連続していたましい殺人事件が頻発した。