このように、開港後、対外係争事件が勃発して世間を騒がせていたが、今までは一人~二人を対象としての傷害事件であったが、ついに文久元年(一八六一)に入って五月二十八日、品川の東禅寺にあったイギリス公使館を、水戸浪士有賀平弥・野州浪人吉田宇衛門・武州浪人浅見吉之輔ら同志一四名が、公使館員全員の殺害をねらって襲撃した。当時公使館には幕府から派遣されていた警吏別手組や郡山・西尾両藩兵など約二〇〇名余の警備隊がいたので、これら警備兵によってこの事件は未然にふせがれたが、しかし館員二名が負傷し、警備兵の死者は約二〇名にのぼった。事件の模様は「嘉永明治年間録」に、「何方の者とも相分(わか)り申さず、品川宿二丁目旅籠屋渡世虎屋方に止宿致し、多分の金銭遣い捨て候ニ付、虎屋より名主まで断わり届け致し候由、然る処廿八日夜四ッ時半ごろ、外国人宿寺高輪東禅寺表門内竹矢来南側切り破り、浪人体の者廿一人ほど白布にて後ろ鉢巻、脚絆小袴着用にて斬り込み候に付、詰合の御番士(松平時之助)ならびに固め諸侯人数出会い、防戦、夷人ども鉄炮打ち懸け候に付、浪人徒党の者散乱す」と報じている。この襲撃事件は翌文久二年(一八六二)二月にイギリスに幕府が賠償金を出して解決したが、その六月四日にまた東禅寺に松平丹波守家来足軽非番のもの某が忍び入り、英人マタルスを斬殺したためイギリス側は再三の死傷事件で、今度は多額の賠償金を幕府に要求していたところ、またまた同年八月二十一日に、横浜生麦村(横浜市鶴見区生麦町)付近で、乗馬の英人四名(うち一名婦人)を鹿児島藩士奈良原喜左衛門が殺傷するいわゆる生麦事件が発生した。頻発して起こった幾多の異人斬りは、当時の在留外国人を恐怖のどんぞこにおとし入れ、外出もおちおちできないような状態にしてしまった。イギリス公使館通訳であったアーネスト=サトウは、日本赴任にあたって、日本の現状をきびしく批判し、みずからは拳銃を帯して来日してきたことを述べている。
これは、開港以来わずか二ヵ年あまりの間の出来事としてはかなりの件数である。すべての場合に襲撃は計画的であったが、それも特別に理由があってのことでなく、また加害者はかならず帯刀階級(武士)であった。このように無残な斬殺をおこなった人々は、その犠牲者たちになんらの怨みを持っていたわけでない。政治上の動機からの暗殺であり、しかも殺戮者はいずれの場合にも処罰をうけずにすんだ。そこで外国人たちは、日本は命がけの生活をしなければならぬ国だと思うようになり、すでに多くの実例のあるこうした不幸な最期をとげるのを恐れる念が、居留民の間にひろがった。わたくしは任地に出発する前、イギリスにいたときから、日本では気候の変化から来る危険のほかに、熟練した剣士の手にかかって、不慮の死をとげる危険をも考慮に入れなければならないと考えたのであった。したがってわたくしは相当の量の火薬・弾丸・雷管とともに、連発拳銃を買ってきた。外国人居留地の境界外に出る場合には、だれもがつねに拳銃を携帯し、またつねに枕の下に入れて寝ていたほどだから、当時これらの武器は盛んに日本に売りこまれたにちがいない(『ヤングジャパン』ねずまさし訳)。
生麦事件が突発すると、横浜居留外国人団は非常に驚き、ただちに居留民会議を開き、報復・賠償の諸案を議した。その席上米国公使ブリューインは「日本の慣習では庶民は勿論、普通武士は貴族通行の際には、下馬して敬意を表するを礼とする。英国人の行動は、薩州藩士には無礼と考えられたのであろう。たとえ相手が外国人でなくとも、この場合しばしば争論や殺傷が起こるのである。この日アメリカ人ヴウン=リードは横浜に帰る路上にて、この行列(鹿児島藩主父島津久光)を追越したが、かれは少しく日本語を語り、且つ薩州藩士の中に知人が居たので無事であった。」と言語・風俗習慣のちがいによって起きた事件で、決してはじめから敵意をもって殺害したのではないと評している。たしかにこれらは事件発生の重大要因ではあるが、ともかく開国をした幕府に対する攘夷論者の反感による行為であることにはかわりがない。
生麦事件の結末 この事件でイギリス代理公使ニールが幕府に謝罪と賠償金を、鹿児島藩には賠償金と犯人の死刑を要求したが、幕府は翌三年(一八六三)五月一〇万ポンドをイギリス側に支払ったが、鹿児島藩は要求に応じないので、イギリスが直接艦隊を鹿児島に派遣して、同年七月のいわゆる薩英戦争となったが、のち和議が成立し、鹿児島藩が二万五〇〇〇ポンド(六万〇三三〇両余)を幕府から借用して支払い、犯人の処刑を約し解決をみた。