5 英国公使館焼打事件

1165 ~ 1168

 両国間で建物使用についての交渉が行なわれている最中の文久二年(一八六二)十二月十三日、ついに攘夷論者である長州藩士谷梅助(高杉晋作の変名)・久坂(くさか)玄瑞・志道聞多(井上馨の変名)・伊藤俊輔(伊藤博文)ら同志一三名によって、英国公使館の焼打事件が起こった。

 そもそもこの焼打事件の発端は、高杉ら同志が、薩藩はすでに生麦において、夷人を斬り殺して攘夷の実を挙げているが、長州藩はなお麻の上下(かみしも)を着て、安んじて公武合体を説(と)くのはおかしいと考え、まず外国公使の襲撃を企てた。すなわち当時横浜在留の外国人は、土曜日より日曜日にかけて、近くの勝地を遊覧するならわしがあった。そこで十一月十三日の日曜日に、某国公使が武州金沢(現横浜市金沢区金沢八景)に遊びに行くとの情報を得て、この機をねらって公使を刺殺せんとしたが、世子公(毛利定広)の説諭により中止せざるをえなくなった。この外国公使襲撃の失敗により、高杉らは文久二年十一月血盟書を認(したた)めて同志の結束をちかい、高杉の発議で「幕府は攘夷の勅を奉じながら、外国公館を御殿山に新築しつつある。御殿山という江戸の名地を外夷腥氈(なまぐさきけもの=それを食べる外国人)の気に汚すは、吾々同志の見るに忍びざる所なり、よろしくこれを一炬に付して、金沢一挙の失敗を償うべし」とて計画されたのが、御殿山英国公使館焼打ちである。この事件の経過は『井上伯伝 巻之一』にくわしく述べているので、その一説を紹介しておこう。

君等井上馨等同志は猶ほ江戸に留り、御殿山公使館に放火せんと欲し、相会して其方法を協議せり。其の人々は、高杉晋作・久坂玄瑞・有吉熊次郎・大和弥八郎・長嶺内蔵太・伊藤春輔・臼井小助・赤根幹之丞・堀真之助・福原乙之進・山尾庸三、及び肥後藩松本某にして、君をあはせて十三人なりしと云ふ。或は云ふ松本は加はらずと同志協議の末、先づ焼弾数箇を製造するに決し、桐炭を細末にして之に火薬を混合し、紙にて一塊に包み、之に導火線を付することゝ為し、福原乙之進其の製造を担当せり。福原一夜其の焼弾を袂にして、君等の会合所たる品川の妓楼土蔵相模に持来るの途中、辻番所の側にて放尿したる為め、番人に咎められ、拘留所の如き所に押し込められたり。(中略)其の焼弾を袖中より取り出し、少しづつ之を口中に入れて、尽く之を喰ひ尽したり。故に無事に放免せられたり。同志協議の末、十二月十二日を期して放火するに決したれば、同夜九ッ半時までに、一同土蔵相模に会合するの約束を定め、君と高杉晋作は焼弾を預り、同楼に在りて其時刻を待ち居りしに、一同約の如く来会せり。其の役割は君と福原・堀の三人を以て火付役と為し、其の他の人々は建築掛の役人又は番人等の出で来るあれば、直ちに之を斬り殺すの任に当ることゝなせり。因て君等三人は各々焼弾二個宛を袖にして、一同と共に土蔵相模を立出でて御殿山に至る、時に公使館はほぼ落成したるも、外国人は未だ一人も移住せず、その周囲には乾濠を掘り、その内に柵を繞らせり、一同その乾濠を渡り、柵を乗りこえて内に入りしに、会々葵の徽章ある提灯を携えて巡視する者あり、高杉直ちに劔を抜てこれを斬らんとす、その人驚きて逃走す。この時高杉はあらかじめ用意したる鋸を以て柵を斫り破り、遁路を作り置けり、君等三人は直ちに本館に入り、焼弾の上に燃料を積み重ねて、導火線に点火したるに、たちまち焼弾に移りて燃えあがりたり、一同これをみて遁路より出で去れり、君は一人跡に留まりて、火勢如何を窺ひ居たるに、発焔未だ十分ならざるを以て、再び本館に入り戸板などをうち毀ちて、これを梯子段の下に積み重ね、更に又一個の焼弾を其の下に置きて火を放ちたれば、火焔頗る熾んに昇騰せり。此に至り君は急に逃げ去らんとせしも、高杉の作りし遁路あるを知らず、再び柵を乗り越して外に躍り出るや、誤て乾濠中に顛倒せり。其の時公使館は已に燃え揚りて大火と為り、警鐘所々に響き、消防夫群を為して御殿山に来る。君辛うじて乾濠を攀ぢ上り、畑中を右往左往に逃げ迷ひ、漸く高輪に出で武蔵野と云へる引手茶屋に入るを得たり。茶屋の主婦は君が土泥に塗れ居るを見て、大に驚き、如何にして斯く汚れ給ひしやと問ふ。君平然として曰く。唯今御殿山の火事にて消防組の馳せ来るに出会し、之を路傍に避けんとして、誤て顛倒したるなりと。主婦真に然りと為し、君を送って土蔵相模に至る。君乃(すなわ)ち一酌して同楼に熟睡す。高杉・久坂等は芝浦の海月楼に上り、御殿山の火事を望みて快飲し、堀と白井とは高輪の引手茶屋の楼にて一酌し、消防夫等の奔走するを観て楽しみたりと云ふ。

 この事件の様子は、被害者である英本国へも伝えられて、ロンドン新聞紙上をにぎわし、日本人に対する非難が強かったが、その禍中に在英した幕臣の一人は、「江戸っ子の花見の場所として愛されてきた御殿山を、庶民から奪い、立派な公使館を建てなくてはならなかったのか、その辺を充分に調べもせずに外国使臣団の要求に応じた幕府外交がだらしがない」と悲憤慷慨した一文を日本によせている。

 首謀者である高杉晋作は英国館襲撃の日、後藤象二郎を訪ねて「本日御殿山に煙花(はなび)を打ちあげようと思う。寝ていてこれをみるも亦一興ですよ」と話して立ち去った。このとき象二郎は、晋作の言葉の意味がわからなかったが、しばらくして庭前はるかに燃えあがる御殿山をみて、やっとかれの真意をよみとることができ、「晋作と共に大杯を挙げて痛飲し快と称す」との後日談が『明治豪傑譚 巻一』に「後藤象二郎御殿山の花火を観る」と題して書かれている。一般市民のなかでも、はじめから御殿山に異人館を建てられるのを憤慨するものも多かったから、火薬が爆発して全焼する光景をのぞんで、むしろ歓声をあげ祝炮をうったと伝えられている。

 事件発生直後、幕府は官憲を緊急手配して犯人を逮捕したが、翌三年(一八六三)正月六日に七日間の遠慮(微罪ある武士に対し門を閉じて籠居させること。謹慎)に処して落着した。以後再びこの地を外国公館街にする計画はなくなった。