参勤交代制度は幕藩体制を維持するための、最良の仕組みだったといってよい。それに要する費用は年を追って藩財政の障害となり、その結果、逆に江戸の繁栄は持続することができたといえる。東海道筋第一の宿駅としての品川の存在も、またそれに関連してのことである。
幕末になるに及んで、各藩は対外政策上軍備の充実に努め、そのため軍費の支出に悩み、幕府も大名の財政負担を軽くする点からも、国内警備態勢の強化のためには、各藩主の参勤を一時ゆるめてもよいとの考えになり、文久二年(一八六二)閏八月、「参勤の割三四ヵ年目に三ヵ月又は壱ヵ年在府」と緩和の特別処置をとることを布告、組替え・交代の順などを発表した。
この緩和令がひとたび出されると、反幕府的立場にある長州藩など、たちまち桜田にあった上屋敷の建具・畳までも国もとへ送るといった行動に出、一時は品川宿は輸送関係で大変なさわぎであった。この布告は、大名諸侯の財政負担を軽くし、諸藩の軍備を整備させるという目的で行なわれたのに、かえって諸大名は人質の形で江戸にいた妻子を国もとに送り、精神的に幕府の束縛を脱した形となり、その上、志を京都側に通じる諸大名の上京滞在を助長し、幕府の権力を基礎からくずす役割を演ずることになった。
江戸はこのため急速に活況を失い、横浜貿易商たちも江戸での大名商いに大きな打撃をうけ、横浜・江戸間を結ぶ品川宿にも影響を与えずにはいなかった。品川の宿場としての衰微は、時の経過とともに深刻な状況になっていった。
ことに武家人口は、江戸の人口の約半数を占めるといわれ、江戸の繁栄はその消費の上にたっていたのに、旗本たちは、江戸に居住しているとはいえ、国許より出府していた多くの諸藩の武士は、江戸をはなれる状況となってゆき、供廻りの減少、仲間(ちゅうげん)等の人数減少令と相まって、いわゆる「仲間(ちゅうげん)」の失業、「人宿(にんじゅく)」の困窮といった、下層部における大きな打撃は、参勤交代の緩和による不況を一層つのらせ、社会不安をも引きおこすようになっていった。
一方、幕府は諸侯がこのため江戸を軽視し、京都を重くみる傾向をみせるに至ったことに驚き、元治元年(一八六四)幕府政権の存続上のゆゆしい問題として、九月には、ふたたび妻子を江戸にとめおくこと、参勤交代を旧に復すること等を布告、「在国在邑の諸侯にして当年参勤年の面々は至急出府すべし」との命を伝えたが、諸大名の抵抗は強まり、幕府の思うようにはゆかなくなってしまった。江戸在府の制は有名無実化して、時局の変転とともに江戸は次第に繁栄から遠ざかっていったといえる。