この間「攘夷」の問題にからんで種々の工作が行なわれ、文久三年(一八六三)二月には前代未聞という将軍の上洛が行なわれ、品川宿および付近の村々は、それこそ昼夜休むひまもないほど継ぎ立てや助郷に忙殺された。命をうけるたびに、名主達の困惑は一通りでなかったという。
しかも文久三年八月十八日宮中のクーデターから一転して翌元治元年七月の第一次長州征伐という事件が起こった。
品川宿および周辺村々の人馬動員に対する困惑と疲弊は、もう最悪のところまでいった。ついに八月廿八日、品川をはじめ東海道五十三ヵ宿は連名で「人馬数の減勤方、助郷へは増高か拝借金をねがったが、各宿ともどうにもならぬところえ来た。特別の主法を設けるか、上洛の時より一段ひくい人馬数にして貰いたい(『品川町史上巻』)と歎願している。このとき費用の前金払いを主張したということは品川宿はじまって以来のこと、こうした点でも、もう次第に幕府がその権力を圧倒的に行使することができなくなってきたことを端的に示している。
この元治元年には幕府も戦備をいそぎ滝野川(北区)に石神井川の水を利用しての反射炉の建設が開始され、さらに慶応元年(一八六五)には第二回の長州征伐が計画され、江戸市中の富裕町人に対しては御用金が課せられるなど、都市江戸は京都の動勢と関連しつつ、次第に戦時色を強め、そうした動きに伴って、物価はどんどん上昇し、特に米価の騰貴はいちじるしく、市民生活への圧迫は容易ならぬ事態においこまれつつあった。