貿易の盛況による国内物資の海外流出と、貨幣政策の失敗もあって、物価騰貴による江戸市民の生活難は深刻なものとなってきた。
すでに幕府も文久三年には、旗本下級武士の救済策を講じ、三百石以下には拝借金、百俵以下には下賜金を与えたりしたが、いっぱん江戸市民の生活は極度に逼迫し、慶応元年(一八六五)七月よりは、町会所で市中貧民に対して米銭を与えて救済することにしたが、こうした手段は一時的なものにすぎなかった。
米価はうなぎのぼりに上がり、翌慶応二年には、米が百文に一合五勺という相場になり、ついには市民は生活上我慢できぬところまでいった。
幕府と長州が戦端を開こうとしていた直前の五月二十八日夜、ついに江戸市民の不満は爆発した。最初品川宿の窮民たちが質屋・米屋といった商家を襲撃して、打ちこわしを行なったのをきっかけに、江戸はじまって以来という大騒動となった。
(品川宿が、打ちこわしの始発点となり、それが、大騒動となったことは、品川宿場内の人々の爆発的エネルギーを、大正時代の米騒動の富山県西水橋町の漁民のそれとよく比較される。)
まず、廿八日の夜五ッ時(午後八時)、顔を手拭でかくした男が、南品川御嶽町の稲荷神社に太鼓を借りに来て、神社側がことわったのに無理に持ち出し、馬場(番場)町の本覚寺(天台宗)境内へもちこみ、これを打ちならした。これをきっかけにどこからともなく多数の者が集まり、気勢をあげて押し出し、南品川宿・北品川宿・品川歩行新宿とつぎつぎにあばれ廻ってめぼしい家の打ちこわしを行ない、さらに引き返して、北品川馬場町から東海寺門前御殿山下の下村屋松次郎の家を打ちこわし、それから東海寺裏手、居木橋(いるきばし)方面へまわり、そのままちりぢりに分かれて、どこえ行ったかわからなくなり、うまく解散してしまったという。人数もはじめは二十人ばかりだったのが、次第に増加し、子供も加わって百人ほどになったが往来で提灯をもっている者にあえば、その灯を消して闇夜にするといった行動にでたため、人相など誰かもわからず、また怪我人もなかったとのことである(「藤岡屋日記」)。
この打ちこわしで、南品川宿・北品川宿・門前町家とも、ねらわれたのは決して米屋ばかりでなく、富裕者と目される人々であった。南北品川で襲われた家は次のとおりであった。
慶応二寅年所々打壊し候ケ所
一、五月廿八日○慶応二年夜五ッ時より。
北品川稲荷門前 二軒
同所東海寺門前 七軒
同所清徳寺門前 四軒
質屋 佐々井半十郎今川要作当分御預所武州荏原南品川宿家持 油屋伊兵衛
米屋 同 大津屋利右衛門
質屋 家主 三浦屋次兵衛
同 家持 三浦屋惣左衛門
米屋 伊兵衛地借 武蔵屋文五郎
質屋 家持 木倉屋半兵衛
酒屋 同 木倉屋又兵衛
旅籠屋 五人組持家 紅屋伴蔵
同 右同断北品川宿新八地借 紅葉屋栄吉
呉服屋 家持 杉浦屋作次郎
旅籠屋 同 布袋屋権八
質屋 同 吉田屋又七
同 同 高田屋金八
紙屋 同 伊勢屋伊右衛門
釘屋 茂右衛門地借 伊勢屋茂助
呉服屋 家持 津国屋幸右衛門
砂糖屋 源七地借 小泉屋喜兵衛
旅籠屋 家持 岩槻屋ゑひ
米屋 伝次郎地借 金屋粂吉
質屋 同 相模屋忠蔵
店頭 家持 下村屋新次郎
酒屋 右同断品川歩行新宿家持 三田屋さき
米屋 同 尾張屋藤七
旅籠屋 同 相模屋たま
同 同 紙屋はつ
酒屋 嘉兵衛地借 越前屋栄蔵
米蔵 喜兵衛地借 万屋清助
質屋 宇兵衛地借 高島屋重蔵
旅籠屋 五郎八地借 玉木屋きん
同 家持 住吉屋啓蔵
同 直次郎地借 万屋つね
同七軒 同所四丁目
同四軒 同所五丁目
同三軒 芝田町六丁目
同壱軒 芝金杉裏五丁目
同二軒 同所裏四丁目
同二軒 同所通四丁目
同壱軒 同所通三丁目
同壱軒 同所通二丁目
同九軒 芝西応寺町
同二軒 金杉安楽寺門前
同五軒 同通り一丁目
〆家数六十七軒。町数十八ヵ町
――藤岡屋日記
打ちこわしにあった家の被害状況については、区史資料編の近世の部に品川歩行新宿の主な家のことが出ているが(資三三五号)、有名な旅籠屋の相模屋など、一階から二階まで徹底的にこわされ、天井板まではがされている。こういう家は常に品川の人々から、富裕者として目をつけられていたのであろう。その後、江戸市中につづいて起こった打ちこわしと違い、旅籠屋がかなり打ちこわされたところに、品川の宿場の特殊性がうかがえよう。
品川の打ちこわしは、二十九日麻布からさらに江戸市内に波及し、芝田町・浜松町辺に及び、六月に入って一日から四日まで牛込・四谷・神田・赤坂・本所で昼夜をとわず暴れ廻った。江戸で打ちこわされた家は「横浜商い致し候者」が第一で、米屋や質屋・酒屋などが主としてねらわれた。
幕府も六月二日から町会所の米を放出して困窮者の救済にのり出し、又別に独身者には六百文、二人暮らし以上の者には一人につき五百文の割で支給したりしたので、ようやく一時打ちこわし騒動はおさまった。
その後しばらく小康を保っていた江戸市中も七月から益々米価は騰貴し、九月には白米百文につき一合一勺という極限まできた。市民もどうにもならず、ついに再び打ちこわしの行動を起こすに至った。九月十八日には本所・深川で米屋を襲い、処々に大釜を持ち出して米をたくといった事態になった。これがきっかけで、ついに浅草・日本橋の下町から山の手まで波及し、江戸開府以来という大騒動になった。
群衆には指導者があったようで、次第に巧妙に組織されてゆき、各店々の前におしかけ米や金を要求し、各町ごとにその町の名をしるした紙のぼりをたて、もらった米・味噌・醤油などを各氏子ごとにわけ、神社境内に大釜をかり出し炊出しをやり、集まる貧困者全部にそれを与え気勢をあげるといった方式に発展していった。一部の群衆は老中水野忠精・勘定奉行小栗上野介といった首脳部の屋敷におしかけ、状況も悪化していったので、幕府もすててはおけず、九月二十一日より本所回向院・谷中天王寺・大塚護国寺・渋谷長谷寺・三田功運寺の五ヵ寺で炊出しを行なった。そこで、ついに幕府も町奉行所に命じて外神田佐久間町河岸に御救い小屋をたて、これに極貧の者を収容して救済に当たった。だが救い小屋に入った連中で出ようとする者が少なく、十一月になってもまだ入所希望者があって、幕府ももてあまし気味だったという。
群衆は決して富裕な町家ばかりにおしかけたのでなく、大名屋敷にまで押しよせ、金品を強要するほどだった。本所の細川邸では、近くの町々へ百金を支給し、津軽家では表におしよせた窮民の侵入を防ぐため、空砲をうっておどして、ようやくこれを退(しりぞ)けたほどであった、「猿若三座の芝居興行を停む。遊里に赴く者更になく、妓家貨食舗等の寂莫なる想起すべし」(『増訂武江年表』)である。『日本新聞』が江戸における六月の米騒動を報じて「方今日本の政風将に一変せんとするの秋なり」といったように、暴動は幕府崩壊の前夜をおもわせた。
この打ちこわしをのべた『嘉永明治年間録』に、町奉行所の門外に張札をするものがあって「御政事売切れ申し候」とあったという。どんなに江戸市中を驚愕させたか想像できよう。
五月廿八日○慶応二年夜、品川宿にて大勢集り、物持居宅多く打毀し、同○慶応二年五月廿九日夜、芝田町辺数十軒打破り、六月二日三日四日○慶応二年頃、或ハ四ツ谷辺或ハ下町本所辺所々、白昼に横行いたし、横浜商ひいたし候者、又ハ米店、其外富有の町家を打毀し、希有なる哉、格別大勢にてもなく、兎角子供の多く集り来り、中に頭分とも相見え、十五六歳の男子、屋根上を飛ぶが如く、縦横自在に奔走、頻りに下知を伝へ、打毀し、又ハ先へ行同様の所業、日々夜々流行すと云ども、手を束ねて傍観するのみにて、制する者ハなし。此頃江戸尹の門外に張札あり、其文に云、御政事売切申候と楽書有レ之と云ふ。此頃の米相場ハ、壱両に付壱斗四五升位なり、其余も準レ之。
――嘉永明治年間録
『増訂武江年表』はこの打ちこわしについて次のように述べている。
○近年続て諸物の価沸騰し、今茲は別て米穀不登にして其価貴踊し、五六月のころよりは小売百文に付て一合五勺に換へたり、八九月の頃に至りては一合一勺位に及べり、如此く登踊して賎民の困苦いふばかりなし、五月二十八日の夜五時頃、何ものとも知らず南品川御嶽町稲荷祠の太鼓を取出し、同所本覚寺の境内にいたり打鳴らしければ何方よりか雑人多く集ひ来り、夫より群行して南品川馬場町油屋某が宅を破却し、南品川宿、北品川歩行新宿、東海寺門前の町屋を打毀す事凡四十軒程、即時に散じて行方を知らず、夫よりしてかゝる狼藉の輩諸方に蜂起して日夜に群行し、本芝同田町、金杉町、芝西応寺町、浜松町中門前等に及し、六月二日は新和泉町、四谷辺、鮫河橋、麻布本村等の町屋を壊てり、又三日には堀留町、牛込中里町、早稲田町、馬場下町、鎌倉横町、赤坂田町、新町の辺、四日には本所茅場町、四谷伝馬町、五日には本所緑町に及べり、この内幼弱の少年も立交りて、飛鳥の如く駈廻りてともにこぼちける由なり、天明の打ちこわしは少年の男子先立したり、奇といふべし、何方より来て何方へ帰るといふ事を知らず、不思議の事といひあへり、かゝる狼藉に及びしかど、全く飢餓に迫りし事故、六月中には町会所より貧民御救として、一人分銭壱貫百文宛を頒ち与へられ、九日初旬には百文に付二合五勺の御払米これあるべしとて、坊間へ張札を以て徇(ふれ)られしが、其公験行渡らず、此米は賎民の内にもわけて貪窶窮迫の者にわかちて、飢餓を救ふべしとありしが、此撰に洩たるを羨且憤りて、九月十日の頃よりは、本所大島町辺の貧民急卒に大路に輳り、富商の家又は米屋味噌屋炭薪屋等の門辺に彷で救施を求む、大釜を押て借受、押借の米を焚て是を饗ふ、是よりや始りけむ深川猿江のあたり、松代町本所松倉町辺、其余追々諸方に屯集し、本所法恩寺の境内に集り、卒塔婆を折て薪とし米を焚て夜を明せり、寺主も始の程は穏に諭し軟言けるが、余りの放逸に困じ果、さればとて巨多の人数にして達晨に曁び、捨置べからざれば止事を得ず、寺社奉行所町御奉行所へ訴へ申けるにより、人数を向られて即時に追擺はる、しかれども猶他所の市店に迫り、武家へも趣きて扶助を募る、本所細川家には最寄の町々へ百金を給ひ、津軽家には表門へ押寄せし族を制せられしかど、更に不肯に依て空炮を放ちて追退けられたり、十五日頃浅草辺橋場今戸に及ぼし、浅草寺弁天山、橋場法源寺、総泉寺に集り、富商の施財を催促す、深川霊巌寺へも集りし由なり、十七日には中の郷南割下水下谷坂本其外所々に羣り大路に駢〓せり、依て商家は戸扉を鎖して声をもたてず、十八日下谷竜泉寺町の族大恩寺に集り、谷中天王寺へも羣れり、和泉橋北広小路下谷稲荷社内へも屯しける、十八日は上野大師の縁日にて詣る人もありけるが、異国人此辺を通りかゝりけるを、羣集の貧民大声を挙て罵詈、礫を打てやまざれば異国人恐れて逃延たり、十八日夜よりは神田町々の賎民も道路に屯集して、前同様の所行有舂米屋も怖れて戸を閉家業を休しかば、諸人弥迷惑せり○九月神田佐久間町の河岸へ貧民御救の仮屋を建られて扶育せられ、又同廿一日より、五ケの寺院に於て焚出しの御救始りしかど更に間にあはず、未明より其所に集り与へられたり、五ケの寺院は本所回向院、谷中天王寺、大塚護国寺、渋谷長谷寺、三田功運寺等なり、富饒の輩は此節賎民の狼戻を憤る有ど、暴行を厭ひ各米銭を〓す事夥し、猿若町三座の芝居興行を停む、遊里に趣くもの更になく、妓家貨食舗等の寂莫たる想像すべし。
――増訂武江年表巻十一