品川の貧民たちの不満の爆発をきっかけに江戸市民の打ちこわし騒動は五月末からはじまったが、それは連鎖的反応を武州一帯に及ぼした。武州から上州まで、農民の物価騰貴に対する憤懣が、一揆となって拡大、いたる所で打ちこわしが行なわれた。
慶応二年六月武州秩父郡名栗に生じた一揆は同月十四日に飯能におしかけ、穀物の買占めをしたり、高利貸などで私腹を肥やしていた富商を襲撃、これをきっかけに打ちこわしは武州一円に拡がり、更に上州に及び、一週間にわたって大騒ぎをした。ただこれらの一揆のうち、武州では新町から八王子に向かった一手は多摩川の岸で、村山から東南に向かった一手は田無で、それぞれ、幕府側が農民を組織して作った農兵隊のため、くいとめられて四散したことは皮肉であった。
江戸ばかりか、武蔵一帯がこの通りの有様で、一時的弥縫策ではどうにもならぬところまできてしまった。
武州一揆の一部の行動については、次のような記事がある。
武州秩父郡御嶽山麓辺より百姓共徒党いたし、追々押出し候に付、四ケ村凡そ三千人余り、青梅村・扇町谷・所沢・藤岡・吉井・中山道・本庄・新町・熊谷宿・川越城下辺へ押行き、大家へ施金懸合、彼是申し立候処は打毀し、施金申立の通り差出し候分は其儘、甲州街道・府中宿布田宿より三川を越え、横浜へ押行き申すべき処、追々江戸表歩兵頭組共出張、近国大名へも出張仰付けられ、追々打払候に付、……… ――田中惣五郎氏『明治維新』