江戸市中の打ちこわしや、多摩を中心とした武州一揆は、民衆が徳川幕府のお膝元一帯でも、もはや政治に我慢のできぬところまできていることを示したものといえる。こうした内側の情勢とともに、幕府にとってさらに大きな痛手となった事件がおきた。慶応二年の七月二十日、将軍家茂が大坂城中で二十一歳で死去したことである。そのあとをつぐべき慶喜は容易に将軍職につかず、十二月になって将軍となったが、しかも十二月二十五日には、孝明天皇が死去するという事件がおきている。
この間、長州再征の問題は慶喜の努力で解決することにはなったが、朝幕間の調整は思うようには進まず、明治天皇が即位された後も、岩倉らと薩長側は英国側と結び、幕府側はフランスの勢力をかりて、その溝は一層深くなっていった。
こうした情勢に対して、もはや善処すべき時期に来たとする土佐の山内容堂や、家臣後藤象二郎の大政奉還についての勧告や陳述が、将軍慶喜の心を動かした。将軍慶喜は、慶応三年(一八六七)一月征夷大将軍に任ぜられる以前、すでに十四代家茂将軍の後見職として天下の形勢をみてきたため、大政奉還やむなしと心にきめ、芸州藩主の浅野茂勲のすゝめもあり、十月十三日討幕の詔書が薩藩に下り、萩藩主父子の官位復旧の宣旨が与えられたなどの報もうけて、時局の収拾のために、翌十四日二条城に、在京四〇藩の重臣をあつめて大政奉還を諮問、九日その上表を朝廷に提出、十月十五日ついに大政奉還が勅許されるに至った。
二百数十年にわたる徳川支配、いや七百年におよぶ武家政治支配に、ついに終止符がうたれる時が来たのである。十二月九日王政復古の大詔が発せられ、世は維新を迎えたのである。
しかし、慶喜は提出した上表文にも記したように、大政を奉還しても、名をすてて実をとり、衆議による国政の担当、いわゆる会議制度によって事実上の主宰者たろうと考えていたが、王政復古宣言の九日の夜、京都御所内の小御所で会議が開かれ、岩倉具視や大原重徳が、山内容堂や徳川慶勝・松平慶永らの、慶喜をよんで意見をきくという主張をしりぞけ、島津茂久らも岩倉に賛成、ついに慶喜の辞官納地を決定するに至った。このため慶喜の考えは全くくずれ去った。翌十日、二条城にある慶喜にこれが示されたが、慶喜は天領返上はしばらく猶予あるよう奏請、これがもれて幕臣や親藩の藩士につたえられたため、これら諸士たちの激怒となり、これみな薩藩のなすところであるとして、薩藩討つべしの声が高まり、二条城内は大変な騒ぎになった。
このため、慶喜は万一事変でもおきてはとの心配から、二条城を出て大坂城に退いたほどであった。
京都においてのこうした騒ぎは当然江戸にも伝わった。旗本をはじめ、幕府側藩士たちも生活上の問題がからんでいるだけに、その怒りもいっそうはなはだしいものがあった。
しかし、それよりさき、すでに江戸市中の混乱は極度に達していて、十一月十三日には幕府の歩兵が発砲して、吉原を荒らしまわるといったこともあり、市中の財産家目当てに鉄砲や抜身で押し入る悪党どもが横行するといった有様で、末期症状を呈していた。