薩摩藩邸

1182 ~ 1183

一方、江戸幕府を倒す一つの手段として、江戸市中をあらし廻り、関東一帯で騒動を起こさせることが効果ありとみた薩藩の西郷吉之助は、藩士の伊牟田尚平・益満休之助などを江戸に下し、相楽総三を中心に落合直亮や権田直助ら五百余人の浪士たちを集め、三田の薩摩屋敷に本拠をおいて、江戸内外を横行、幕臣の家で乱暴を働いたり、民家に押し入ったり、市中の治安を混乱におちいらせる行動をさせた。しかもおわれば薩摩屋敷に逃げこむので、どうしようもなかった。

 こうしたことが、いっそう「薩藩にくし」といった感情をもりあげていった。それにこの大政奉還の報である。このとき相良ら一五〇人ばかりが、薩藩の三田の七曲りの屋敷ににげこんでひそんでいることがわかった。

 はじめは、幕府の兵士たちが薩藩側と交渉したが、薩藩側が承知せず、十二月廿四日夜から数度の交渉も成立しなかったので、ついに幕府も討伐の命を下して、十二月二十五日払暁からの掃蕩となった。