十二月廿五日の三田四国町の薩藩邸焼打ちはものすごいものだったようで、よく当時の老人たちの思い出話が残されているが、それらによると、二十五日のあけ方から、荘内・松山二藩の兵たちが、幕府の陸軍部隊や、前橋・西尾・上の山などの藩兵たちの応援を得て薩藩邸をかこみ相良総三ら一五〇人ばかりの江戸を騒がす者たちを引わたせと要求したが、薩藩側がこれを拒み邸内に入ることをさまたげたので、大砲をうちこみ火を放って焼き、さらに支藩佐土原藩邸にも殺到してこれを焼き払った。総三らはうまく海上から兵庫へ遁(のが)れたという。