品川宿の焼失

1183 ~ 1185

しかし、この薩摩藩邸焼打ちはただ藩邸二つを焼いただけではない、さらに大きな被害を出したことが比較的知られていない。『武江年表』にもある通りで、芝西応寺町・同金杉四丁目、同材木町、本芝一、二丁目、芝田町五丁目から八丁目までを焼いた上、西応寺、法泉寺、永門寺、源照寺を焼き、さらに高縄から火は品川に及んで、南品川宿一丁目より四丁目までを焼き、長徳寺門前・妙国寺門前の町々まで焼失してしまった。品川宿は慶応二年の十二月廿七日、歩行新宿の湯屋からの出火で、歩行新宿・北品川宿・南品川宿合わせて千軒近い焼失という打撃をうけ、なんとか復興に努力してやっと恢復といったところえ、この打撃である。まったく南品川宿は惨憺たる気の毒な状景であった。芝松本町名主の「公私日記」によると、廿五日の朝五ッ時ころ(午前四時ころ)に酒井忠篤の兵士たち二、〇〇〇人が甲冑姿で町内へくりこみ、諸家の兵隊や散兵らも加わって、三田の薩藩の邸をかこみ、潜伏している浪士引渡しの掛合をした上、双方から発砲し、同邸内だけで浪士や藩士合わせて二〇名が討死し、松本町内で五人の士が酒井の手で討たれた。また三田通り物見、松本町前長屋など放火されたが、松本町へは火が移らず無事だった。薩藩邸は焼けたが、浪士たちは逃亡の途中田町へも放火し、品川でも放火した。「諸家人数并散兵等ニテ、小山島津邸、高輪薩邸等放火、打合コレアリ、恐敷覚申候」とある。(『港区史』上巻)これだと佐土原の邸のほか、高輪の薩摩藩邸も焼失したようにみえるが、高輪藩邸は無事で、焼失しなかったという説もある。

 とにかく、「町家焼失ハ、金杉海手迄、田町之内二丁程、高輪通別条ナク、品川駅橋向焼失。是ハ落人道々何ニ寄ラズ火ヲ付ケ、町家ヘ投入候由。夫ヨリ焼失ス。」と『復古記』のいう通りで、品川の町家焼失は浪士たちが逃げる途(みち)々放火したためで、薩藩側の連中の手で放火され、しかもかれらに抜刀でおどされ、消火するどころでなく大きな被害になった((二)行政組織の処で詳しくのべているから参照されたい。)。

 このときの品川宿の被害がどんなだったかはよく判明しないが、北品川は無事で、ごく一部の寺院門前町がやられたのみという説もある。宿駅は無事だったらしく、「橋向う」品川橋以南の南品川宿が主として焼け、南品川一丁目から四丁目まで、それに寺院門前町が手ひどくやられ、焼土と化してしまったといってよい。

 この浪士たちが品川浦漁民を驚かしたことは一通りでなかった。逃亡にあたって、高輪から品川辺随所に放火した上、鮫洲村からは舟で逃げ、品川沖にとまっていた薩藩の船に乗ろうとしたが、二艘はどうしても近づけず、羽田へ上陸したという。

 翌四年正月になって差出した南品川の旅籠屋一同の書上げによると、さきの慶応二年の十二月歩行新宿から出た火事で類焼、何とか苦心してようやく復興、「過半普請出来相成」ったところ、またまた同三年の十二月廿五日、脱走の浪士たちの品川宿通過の際、所々え放火した上、立騒いだ者は斬すてるなどといって押し歩いたため、おそれて家財道具などはいうまでもなく残らず焼失してしまった。一命だけ助かればと親類など頼(たよ)って逃げのびたため、まだ同居して生活している者が多い。どうにかしなければならない。他宿へおちついたものは期日を定めて戻るようにし、品川宿の再興につとめる相談をもちたいといっている。維新変転の際のこうした災難が、南品川宿の再興をいっそうはばんだことであったろう。明治天皇第一回御東幸の際にも、その回復は未だしという感じだったという。その惨状の大きかったことが察せられよう。

 この薩摩屋敷焼打ち事件があってから、事態容易ならずということで、江戸の出入口に関門を設けることになった。