翌十二月の廿六日、品川・内藤新宿・板橋・千住・岩淵の五宿え市在取締りのためという名目で、関門および見張所などを、なるべく簡略に設けよという命令がでて、品川宿は三宅備後守と戸田淡路守が担当を命ぜられた。工事は翌年までかかり実際に品川に関門ができたのは慶応四年の一月十一日といわれている。
十二月廿六目の布告では「市在取締」のため御府内出口所々え関門を設ける。諸士は主人か重役からどこえ家来何人を差しむけるといった書状、百姓町人は所役人の添書なしには「出入共一切通行差留」めるといった布告で、特に旅人に対しては、旅行切手をもたない者は用捨なく召捕えるといった厳重なものであった。
品川宿では、関門を南品川品川寺門前東海道往還と、北品川宿地内南品川宿西裏池上道の二ヵ所に設けられたというが、幕末の世情をよく示しているとともに、江戸の五宿がどんなに非常時体制に変わっていったかを物語っている。
品川宿の関門については、その警備関係の費用は、慶応四年正月のものが品川区史、史料編近世の部(資三三三号)に掲載されている。参照されたい。この関門警備には宿役人の中から利田安之助らが代官下役の資格で交代で出勤して執務した点が注目される。
慶応三年十二月廿六日の布告には、
一 市在取締りのため、当分品川宿・内藤新宿・板橋宿・千住宿・岩淵宿え、関門御取建相成候間、右関門并に見張所其外共成べく丈手軽に、早々御普請出来候様、取計らわる可く候。委細の儀は、御目付え談ぜらる可く候。
右の通り、御作事奉行え相達候間、其意を得らるべく候。
とあって、更に武家町人に対して、
一 市在取締りのため、当分の内、御府内出口所々え関門御取建相成、諸士の分は、其の主人又は重役より、何方え家来幾人差遣し候旨断り書、百姓町人は所役人の添書持参、これなきにおいては、出入共一切通行差留、尤断り書添書等は、関門にて相改め、疑はしき仔細もこれなく候得ば、同所において切手相渡し候間、関門打ち越し候て、右切手所持致さざる旅人は、御府内は勿論、道中筋并に在々にても、決して旅宿致させまじく、且右改めをうけず、押て通行致すべくと仕成り、又は旅行切手所持致さざる旅人は、用捨なく召捕、若し手向いにおよび候はば、切捨候筈に候。尤当時出府途中にて、関門通行方相弁えざる者共は、関門において篤と相糺し、疑わしき筋これなく候得ば、相通す筈に候。 ――慶喜公御実紀
といった通達を出している。