鳥羽伏見の戦

1186 ~ 1188

江戸における十二月二十五日の薩摩藩邸と佐土原藩邸焼き払いの報が、二十八日大坂にいる慶喜のもとに報ぜられると、大坂城内の幕府側の兵士たちは非常に激昂して、薩藩討つべしの声が大きくなり、旗本や会津・桑名両藩士たちの行動を慶喜もおさえることはできなくなっていった。

 慶喜としては、これよりさき朝廷側と幕府側との交渉を、山内豊信の主張する線で、収拾する方針をとり、松平慶永らが奔走、慶応四年の一月一日には慶喜の辞官、納地についても受諾といったことで、岩倉との話がまとまり、議定に任命するといったところまでうまくいっていた。それなのに、この大坂城内の空気におされて、同じ一日、ついに「討薩の表」を以て諸藩に出兵を命じ、慶喜自ら君側の姦を除くということを名分として京都へ進軍することになった。ここに、朝廷側と正面きって、戦を交えるといった事態にたち至ったのである。

 慶応四年(一八六八)正月二日会津・桑名両藩兵を先頭部隊に、幕府側諸藩の兵は大坂を出発、約一万五千といわれた兵は二派に分かれ、会津藩を先鋒とする本隊は伏見街道へ、桑名藩を先鋒とする別隊は鳥羽街道をめざして進み、老中松平正質は総督として、また大目付滝川具挙に命じて討薩の表を奉呈させようとした。朝廷側は慶喜の気持をおしはかりかねて、かねて警戒をおこたらずに、万一にそなえていたため、幕軍進撃開始の報をきくと、薩長土三藩をはじめ諸藩の兵を出させ、伏見では長州藩兵、鳥羽では薩摩藩兵が主となって幕軍と衝突した。三日の日没後、鳥羽口から戦端は開かれたが、四日両軍の戦闘はいずれも朝廷側の勝利に帰し、ついに幕兵は大坂に敗退するに至った。

 当時朝廷側も幕府側も財政窮迫し、大坂商人の財力に期待する点が大であったことは、両者同じといってよかった。しかし、鳥羽・伏見の戦いまでは慶喜が大坂城にいたため、大坂町人たちの心は、どちらかといえば将軍家にまだむけられていたといってよかった。

 将軍慶喜は四日から五日にかけての戦いで、幕兵の敗走を知ると大坂にとどまっていることに不安を感じだした。

 しかも四日には、朝廷では軍事総裁仁和寺宮(にんなじのみや)嘉彰親王を征夷大将軍に任命、山陰道鎮撫総督に西園寺公望(さいおんじきんもち)、東海道鎮撫総督に橋本実梁(さねやね)を任命、着々と討幕の兵備をととのえた。錦旗の南下に伴い、淀藩・津藩は朝廷に味方するに至り、大坂で幕府の軍を整えて挽回することは不可能に近くなった。こうした情勢をみてとった慶喜は、表向きは将軍自ら出陣と、兵士を鼓舞しながら、一月六日の夜、老中板倉勝静や、会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬らをひきつれて、大坂城を脱出、天保山沖に碇泊していた軍艦開陽丸に乗って、江戸へ向かって逃げ帰ってしまった。

 七日には徳川慶喜追討の令が有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王から発せられた。今まで形勢を傍観し、どちらかといえばまだ幕府の方をむいていた大坂町人たちが、これを転機に朝廷方の方にすっかり傾斜することになってしまった。

 三年の暮以降、献金をよびかけられていた富豪が、続々と朝廷側に献金することになった。

 形勢は新政府に有利に展開した。二条城にあった蓄積米約五、〇〇〇石を収め、大津における会津側の貯蔵米八九〇〇俵ほどを薩藩の手におさめて、朝廷側はひとまず財政上の愁眉を開いた。

 一方慶喜大坂城脱出後、勘定奉行並小野主膳正がはやくも一八万両の古金を榎本和泉守に依頼して軍艦にのせた。嘉彰親王は一月七日に東寺を出発、十日大坂に入ったが、先鋒として九日に入った諸隊が大坂城内で火を発してこれが焼失したため、本願寺別院を本営とするのやむない状態になった。城内の金や米はすでに幕府側によってもち出されていたため、財政上朝廷側を利するものはなかったといってよかった。

 慶喜は軍艦で江戸に到着する途中、浦賀に投錨し仏公使ロッシュとひそかに会見、ロッシュは京都と一戦を交えることを強調したが、慶喜はこれに乗り気でなかったという。品川沖に慶喜がのった軍艦が入って来たときの、品川の人々の気持はどんなだったろうか。世の中の大きく変わりつつあることを実際にその目でみたわけである。