慶喜が大阪を出帆して間もなく、七日には徳川慶喜征討の令が発せられることになった。このため二月三日大総督府がおかれ、九日有栖川宮を総督とし、廿八日親征の詔が出た。東海道は先鋒総督に任命された橋本実梁が下ることになった。
慶喜は正月十二日には浜御殿に上陸、江戸城に到着した。しばらく不在にしていた旧将軍を迎えて、江戸城内は活気を呈した。征東の軍むかえうつべしといった声が高まった。
しかし慶喜は恐らく自身には戦う意思がなかったといわれている。
慶喜と大坂から戻った会津の松平容保と、桑名の松平定敬はともに、正月十六日東征軍と一戦を交えることを進言したが、慶喜はきき入れなかった。徳川幕府側といわれたフランスの公使レオン・ロッシュも十九日慶喜と会ってその奮起を要望して、フランス側の援助を約したが、慶喜はこれも体裁よく断わっている。しかし旗本の戦意は強くなっていった。
こうした状況をうれえた慶喜は、恭順の意を表わすために、二月の十二日江戸城を出て、上野の寛永寺内の大慈院に入り、そこに蟄居することにした。外国の力をかりて戦うことを拒否、新らしい時代に対処する心構えを示した。こうなれば、もはやどうしようもない。寛永寺の輪王寺宮(りんのうじのみや)も、和宮(かずのみや)も、徳川家のために謝罪のあっせんをすることになった。
二月十日名古屋を発した東海道先鋒総督橋本実梁は二十八日に駿府に入った。
三月六日には輪王寺公現親王が、駿府に大総督有栖川宮を訪ね、慶喜の命乞いをし、九日には山岡鉄太郎が駿府に来て参謀西郷吉之助と会い、勝海舟の慶喜命乞いの書面を渡している。
慶喜に対する助命運動が行なわれているなかで、東征軍は江戸に対して軍を進めていた。二月十五日進発した東征軍は、左肩に錦旗と同じ布の「錦裂」いわゆるきんぎれをつけ、品川弥二郎の作ったという「宮さん宮さん」の唄をうたいながら江戸をめざして、続々とやってきつつあった。
江戸市民の動揺は甚だしく、江戸の出入口はそうした情報の乱れ飛ぶなかで騒然とした状態であった。
わけても品川宿の混乱・困惑ははげしかった。交通上東海道第一の宿場品川は、大きな焼失の痛手をうけた上、あわただしい要人の往来に、戦争の気配を感じて、なす術(すべ)も知らずといった有様で、三月七日には「御親征ニ付、宿々官軍御通行の節、兵糧ならびに人馬継立の儀に付申渡す義これある間、明八日朝五ッ時刻限遅滞なく罷出づべく候」と勅使下向用掛の江川太郎左衛門手代大井田源八郎より宿助郷へ廻状が出た。
東征軍が品川にくるというのを聞くと、焼け残った歩行新宿や北品川宿では、家財道具から商売用の旅籠屋の夜具まで親類縁者へ預ける「疎開」さわぎだったという。
東海道先鋒総督橋本実梁(さねやね)は、三月十二日に品川に到着した。品川宿およびその付近村々はそれこそ大変な騒ぎであった。しかし、江戸市民の、いや品川宿一帯でも、反新政府的感情は意外に強く、橋本はにわかに池上本門寺を本営として、別の東征軍たちの到着をまつことにした。翌十三日には東山道先鋒総督の岩倉具定は板橋に到着、またこれと前後して北陸道先鋒総督は千住に到着し、甲州街道の先鋒総督柳原前光(やなぎはらさきみつ)は新宿に到着、そこを本営にした。こうして東海道の軍は品川まで、東山道の軍は板橋まで、北陸道の軍は千住まで、甲州街道の軍は新宿まで、江戸を中心として、四方からとりまきつつあった。
東征軍は、これより先、十日に、三月十五日江戸総攻撃ということで協議したが、とりあえず西郷を江戸に派遣、十一日西郷は高輪の薩摩屋敷に入った。これを聞いた勝安房は十三日静寛院宮のことにつき、同屋敷に赴いて懇談、さらに翌十四日には、田町の薩摩の蔵屋敷で再度西郷と会見、ここで慶喜の処分問題につき旧幕府側の意見を提示した。城明渡し以下の六項目は大体承知し、慶喜の処分についてのみ、水戸に退去して謹慎という意見だった。西郷はこれにより、江戸城無血明渡しで条件成立として、東海・東山の先鋒総督に対して、翌十五日の江戸城進撃を中止する旨を伝えた。
西郷はすぐ江戸をたち、三月十六日駿府にいる有栖川大総督宮に、勝との会見の模様を伝え、宮よりの江戸城進撃中止令を、三道先鋒総督に正式に出して貰った。大総督宮は七ヵ条の条件につき、朝裁を仰ぐため西郷を直ちに京都に派遣、二十日京都に西郷が到着するのを待って朝議の結果、徳川処分案が許可されて、ここに慶喜の水戸退去、江戸城明渡しが決定した。
この間、江戸市民および近郷村々の人びとの心配はひとかたならぬものがあった。幕府もこれに苦慮して、三月八日には江川集太が鎮静方頭取として、農民の動揺を防ぐため廻村することを通知したりして、治安の維持をはかったが、一応江戸進撃が中止されて、「十五日江戸表御討入の風聞これあるに付、御歎願相成り候処、大総督府え伺済の上御討入之義見合」わせることになったと西郷が答えたから、「屋敷并に市中猥りに動揺致」したり、不都合が生じないようにと品川宿役人詰所より、地借店借りまで申し渡すようにと布告し、一応安心させ得た(『品川町史』下巻)。
こうした事情もあって、先鋒総督橋本実梁は、まず三月二十三日横浜に到着した海軍先鋒の大原副総督を、江戸にもっとも近い品川に陣をすすめさせることにした。大原(綾小路)俊実は三月廿七日品川宿陣ときまり、警衞として薩・肥および久留米の三藩の兵士が品川にくりこむことになった。三藩の兵が宿内えくりこんでも「決して戦争などないから、動揺しないように」と布告が出て、「右ニ付ては旅籠屋共其外小前の内にも此程中より持退き候家具并に夜具等早々取寄せ、旅籠屋・茶屋共にては御休泊御賄向、いさかも差支え相ならざる様」旅籠屋の行事など呼出して、よく相談せよといった通達を、宿役人詰所から三宿へ廻状を出している(『品川町史』下巻)疎開荷物持戻り令である。よほど宿場内の動向が心配なのか、動揺しないように地借り店借りの者まで特に徹底して通達しろといっている。三藩の兵が大原侍従警衞として本陣に到着したのは、約五百名ほどであったという。
こうして、東海道先鋒総督橋本実梁の四月一日品川着陣の予定がきまった。しかし橋本は一日に品川には来たが、青物横町を通過して、本陣にゆかず、やはり池上の本門寺に宿陣することになった。この間の事情は明らかでないが、薩摩屋敷焼打ちの余波で、焼土と化した南品川宿の模様などから、品川宿民の空気を察してのことだったろう。
これに対して、平松南園の『戊辰日記』(『品川町史』下巻による)は四月一日の条に「今朝大原侍従本陣より東海寺方丈に移る。警衞の兵士長松・春雨・師聖・光源(東海寺のいずれも塔中である)に入る」とあって、大原と警衞の兵士は東海寺中に移った。また妙国寺などえは尾州・長州の兵隊が泊まったようで、前記日誌には尾州兵五百人が南馬場諸寺院に入り、備前・薩長など諸藩兵が品川宿場内にいたことを記している。兵士の移動ははげしく、肥州鍋島の兵士は東海寺中の長松・春雨の両支院に入り、久留米藩兵は光源寺に入り、四日になって品川の宿場内にいた薩藩の兵士は東海寺塔中の定慧院に移った。
この橋本実梁の池上本門寺入りにつれての諸藩兵の動き、大原侍従などの動きは、いわば維新における品川宿の最大の混乱期だったといってよく、宿場内の人びとの心痛、またその雑沓ぶりは想像以上であったろう。
前記戊辰日録(『品川町史』下巻所載)によると、四月二日勅使の一人柳原侍従は、内藤新宿から品川に来て昼食の上、池上に到り、大原侍従は早朝池上へゆき、橋本実梁と相談の上、柳原侍従だけが池上にとまり、大原侍従は東海寺へ帰っている。これは四日の江戸城へいって朝廷側の意向をつたえる相談をしたのだといわれている。
四月四日、この決定にもとづき、東海道先鋒総督橋本実梁は、柳原前光とともに参謀西郷吉之助をつれて、勅使として江戸城にのりこみ、徳川処分案を田安慶頼に伝え、四月十一日を江戸城明渡しの期日として申し渡した。
『春岳私記』にも、四日入城のことを記し、「西郷吉之助○隆盛出府ノ途中ヨリ、直ニ御先鋒御本陣池上本門寺ヘ参着、御示談申上、四日御入城之義、柳原○前光橋本○実梁御両卿ヨリ、田安中納言殿○徳川慶頼ヘ仰セ遣サレニ相成ル由、御当日ニハ、擒ニ成ラセラレ候御覚悟ニテ、兵隊モ召連レラレズ、至テノ御軽装、二卿橋本・柳原并ニ参謀馬上、桜田内上下纔カ三十人計リ、品川ヨリ町奉行馬上ニテ御先達、府内市中取締リ厳粛、勅使ヘ失礼コレナキ様トノ儀、所々ヘ張札コレ有リ、辻々警固ノ兵隊ヲ配リ、恭敬ヲ表トシ、内ニ兵威ヲ蓄ヘ、美事ナル手際ナリ」と幕府側の警備の態度を大いにほめている。町奉行としても充分に気を配ったことだったろう。
こうして江戸城明渡しが、十一日に行なわれることが決定、「城明渡し、尾張藩へ相渡すべき事」との指令通り、東征軍は平和裡に十一日江戸城に入り、尾張藩が城郭は接収し、諸門は薩藩以下諸藩が接収警備に当たった。
この間四月九日には細川藩の兵士が一三〇人東海寺塔中の妙解院に、阿波藩兵士一三〇人清光院に入り、翌十日阿波藩兵は清光院を出て高輪の藩邸に移った。細川藩兵だけが、なお妙解院に滞留していた。
こうした品川宿を中心とした人の動き、出入りの騒然としたなかで、十一日の江戸城の接収が無事に終了し、関係者一同をホッとさせた。
しかし、これは表向きの状勢をのべたにすぎない。尾佐竹博士は『明治維新』下巻において、江戸城明渡しの円滑に行なわれた裏面について、英仏の対立、外交上の駈引などから、フランス公使ロッシュが、慶喜の拒否した東征軍と一戦を交えることにあきらめきれず、盛りかえしに狂奔していたことは事実で、そのためフランス軍艦に江戸湾内での行動を起こさせた点などをのべ、「江戸城明渡しが平和裡に行なわれたのは、仏国東洋艦隊の横須賀造船所を占拠したことが英国公使を牽制し、延いては西郷の決心を鈍らせたのが原因である」と述べている(『明治維新』上)。
英国に対してフランスの幕府あとおしといった計画が、その「狂奔的」活躍をさそい、それが江戸を戦火から免れさせ、平和裡に城明渡しが行なわれた一因であったことも否定できまい。
江戸城明渡の行なわれた十一日には有栖川大総督宮は小田原より軍を進めて四月十四日に、川崎から江戸に入って、増上寺に本陣をかまえようとした。しかし、江戸市中の空気は東征軍に対して非常に不穏であった。このまゝではどんな事態が発生するかも知れぬほど、市中は東征軍に冷い眼をむけていた。そのため総督の宮は、急いで軍を池上の本門寺まで引きあげさせ、ここを本陣として江戸市民との摩擦をさけようとした。
四月十三日には、十四日に有栖川の宮が来られて品川で休憩されるから、往還はよく掃除をし、特に二階・窓・出格子のあるものは目張りをするように、また横町は通行前に縄張りして往来留めにするよう、高火をたく商売のものは休業せよ、昼休中鳴物停止といった、それこそ江戸時代の将軍通行のような布告が出た。
こうして休憩したのち、江戸城に行くとの予告だったが、平松氏の「戊辰日録」(『品川町史』下巻)によると「十四日卯刻、宮、川崎駅御出馬、大森に来らせ玉ひ、俄に田間細径より池上本門寺に入御、滞陣になる。」とあって、品川に来ることなく、直ちに大森から池上に赴いている。どんなに市中の気配を気にしていたかがわかる。又十五日の「日録」に「大総督府今暁卯刻池上出陣、されど多勢混雑。巳ノ半刻過る頃(今の十時半頃)品川本陣へ着御、小憩、即刻出馬入城、今夜増上寺へ御退陣といふ。大総督御本陣前後黒田家護衞、随従公卿正親町(おおぎまち)・三条・西四辻・穂波・川鰭四卿也。其余諸藩隊伍壮厳なり」と記している。他の四卿は別れて品川に来たのであるが、品川出発の隊伍は実に堂々としたものであったという。増上寺の山内を本陣とするため威容を示したのも、そうした市民の空気を察してのことであった。(これは南品川宿が焼土と化して、まだ恢復していなかったのにもよろう。)
この結果十五日から増上寺山内の真乗院に宿泊、そこで指揮をとり、二十一日になって江戸城に入城し、ここを大総督府として、軍政をしくことになった。江戸市民の反抗的感情のしずまるのを待っての行動だった。
十一日城明渡しの日慶喜は寛永寺内大慈院を出て水戸に退去することになり、四月十五日に水戸につき弘道館に入った。徳川家の処分については人心の収攬を第一としたから、二十九日、徳川亀之助に徳川家督の相続を認め、ここに徳川家康入府以来の江戸城は朝廷の手に帰し、一段落をつげた。
一方次元の低い段階での旗本や東北諸藩士たちの間には薩藩に対する憎しみは甚だしく、一戦を交えようとする傾きが強く、すでに二月ころより不平不満の士の会合がつづき、浅草本願寺より上野山内に屯集の場所を移してからは、東征軍とは別に隠然たる勢力となり、市民のこれに拍手するものが少なくなかったため、いっそう大きな集団となって、市中を濶歩するようになっていった。
しかし一部には丸に彰の字の提灯をもって、市中警備と称しながら、押しかり徴発の行動にでるものもあって、市中の治安は非常に乱れていった。
四月十一日江戸城接収後の江戸市中は、文字通りの混乱のつづく状態であった。四月が終わって閏四月になっても、その混乱不安は高まりこそすれ、鎮まりはしなかった。
品川の宿場は東征軍の完全に掌握するところであり、江戸・京都間の連絡のためになくてはならぬ存在であったから、軍政的には治安の保持に充分に意が払われてはいたが、住民の不安はおおいかくせなかった。
ことに江戸城明渡しが終わると間もなく、十三日に東海道先鋒総督府付会計方より、荏原郡三拾八ヵ村の役人に、各村および組合村とも、高百石につき、四斗入り白米三俵に、三両ずつを十五日までに出せという徴発令が出て、村々をびっくりさせた。しかしやはり人心の悪化をおそれてか、慰撫する方が第一とみたのか、十九日になって、「官軍兵粮の賄用として米金差し出しを命じたが、官軍側で調達したから差し出さなくてもよい」と布告して、村々をホッとさせる一幕もあった。
閏四月二日には田安・勝・大久保らに市中取締りを任命し、十日には、朝廷側は副総裁の三条実美を関東監察使に任じて江戸に下らせ 廿四日江戸着、治安維持、人心安定に全力をあげることになった。田安家達(いえさと)(亀之助)に廿九日徳川家督の相続を許したのも、国内事情ばかりでなく、彰義隊による江戸を中心とした不隠な空気をやわらげる必要からでもあった。
しかし、五月三日には奥羽二五藩と越後六藩とが同盟を結んで、朝廷側の薩長に反抗の状勢を示し、新政府の前途をはばむ大きな力が生じた。
そのためいっそう東征軍は江戸の治安維持に全力をあげ、彰義隊の不穏行動と正面衝突をさける方針をとるとともに五月六日、江戸府内にまだ残っている旧幕府の制札を撤去させ、新政府の制札にかえ、こうした面からも新政府の威信を示そうとした。そうした間にも彰義隊による市中の不安はつのる一方であった。