新政府側も、彰義隊と一戦を交えるよりは、東北鎮定が容易でない様相を残している折から、何とか平穏裡にこれをとりしずめることができれば、それが最良の策であることはいうまでもなかった。しかし、新政府側では、江戸市民の反感を身にしみて覚(さと)っていたから、正面きって矢面にたつことはせず、又幕府側も田安慶頼にしても、勝海舟にしても、この意味で同様、最もかれらの信頼する山岡鉄太郎を使者として交渉、局面を打開しようと計った。
しかし、彰義隊の背後に東叡山側の加担があり、執当職の覚王院義観は、特に輪王寺宮を以てすれば、江戸市民はいうまでもなく、以下みなこれにならって、朝廷の政権は宮に帰するといった大局をみる眼のないせまい考えがあったことは否定できなかった。そうした見地から、義観が彰義隊の戦意昂揚につとめ煽動していたことは事実だったろう。「若し朝廷残暴にして禍乱を作(な)すの変あるときは、当宮を以て之に易へ、万民を安んずるの意なり」と義観が鉄舟に回答した(「鉄舟手記」)ということは、その考えがどこにあったか察せられよう。山岡をもっても説得できずと知ると、東征軍側も五月四日から直接交渉説得にのり出したが、輪王寺宮の京都還幸、覚王院義観の本陣への出頭命令等、いずれも失敗に帰した。
事態は一戦を交えるのやむを得ない緊迫状態となった。東征軍といえど資金なしに戦はできず、西郷は大村益次郎に作戦指揮をまかせ、三条は五月九日、この旨を京都の岩倉に報告、その捻出に四苦八苦したが、大阪町人からも借入れられなかった。さいわい幕府の米国軍艦購入の支払予定金が新政府側に帰したため、その二五万両を彰義隊討伐資金にあてることにした。大村は十四日には、翌十五日の彰義隊討伐を布告した。
この間、徳川家の後嗣である徳川亀之助を中心に、種々調停が行なわれたが、これも水泡に帰し、十五日未明より戦端は開かれてしまった。
もちろん、東征軍と彰義隊では武器の上からも東征軍の方が優勢だったが、彰義隊の隊士は実によく戦い、一時は勝敗は容易に決まらぬほどだったが、終極的には東征軍に勝てなかった。
この戦いで、上野山下から谷中の一部が焼失、大きな痛手をうけたが、それにもまして七堂伽籃、輪奐の美をきわめた東叡山寛永寺が東征軍の手で焼き払われたことは、市民の最も悲しみ且つ憤慨したところであった。