「彰義隊と云ハ、徳川並に諸藩の脱走人等屯集したる者にして、決て徳川家の正兵にあらず」と『嘉永明治年間録』が記するように、旗本の加入者の少なかったことは事実であるが、江戸市民の多くは、加入しなかった旗本たちを、「日和見」「忘恩之徒」といったひややかな眼をもってみたことは当然のことであった。たとえ旗本でなくても、東北などから来て、これに加わった者の行動を壮とし、それらの人々に賞讃をおしまなかった。負けると知って戦ってくれたという考えが強かったからである。
しかし東征軍兵士たちの食糧は確保しなければならない。江戸周辺の村々に命を下して、強制的に糧食としての米を出させようとしたが、幕府に好感をよせる多くの市民や周辺村々の人々は、何のかのといいのがれをして米の供出をこばんだため、思うように米が集められなかった。やむなく、江戸市民の金をつみたてて、非常災害の時の社会救済事業的に使っていた「町会所」の米が、小菅の米蔵に保存されていたのをもち出して、何とかやりくりした状況であった。
東征軍の命にそむいては、村方全体の落ち度になることはわかっていても、彰義隊の兵士が敗れて落ちのびるとなると、何とかかくまって、傷の手当ぐらいして、米を持たして落ちのびさせてやりたいといった気持が、市民や村方の人々の心のうちにあった。
「将軍のお膝元」として、永い間すごしてきた江戸市民や場末の村々の人にとっては、彰義隊への同情の方が、東征軍の命令より強かったといえる面があった。
江戸の市民はいうまでもないことであったが、周辺村々でも彰義隊への同情はひとかたでなかった。多くは東叡山領の村々の人々が、彰義隊の兵士をかくまったようにいわれているが、かならずしもそうばかりでなく、品川などでもこうした彰義隊兵士への同情同感を行動で示す現象はみられた。
場末の村方にも反骨精神の横溢した人々が少なくなかった。大崎町長もやり、府会議員もやった立石知満氏は、回顧談として次のようにのべている。
私の親爺がよく斯ういふ述懐をして居りました。どうも京都には天皇陛下がお在でになる。吾々日本国民の最も尊ぶべきは天皇陛下であるといふことは、その当時でもみなよく知って居ったのだが、何分にも永年徳川幕府の恩顧を蒙って居る。百姓の本当の心理状態はどうもまだ徳川様の恩は忘れることが出来ない。それで彰義隊が上野でどうしたとかこうしたとか云へば、内部で以て彰義隊にどんどん糧食を送るとか、或は今会津が斯うだと云へば、会津方面までも、つまり内所(ないしよ)で無理算段までして米をいくら送るとか麦をいくら送るとかする。
その癖一方はどうかといふと、有栖川宮殿下が官軍を率ゐて江戸に乗込んで来られて池上本門寺に殿下の大本営を置かれる。さうすると名主がみな本門寺に呼出されて、下大崎から米何俵、麦何俵といふ風に徴発を申渡される。然るに態々本門寺にまでお呼出しに従って参上しても、官軍の方えはなるべく物を出すまいとしていろ/\口実をもうける。つまり百姓は永年の疲弊で困憊し尽して居りまするから、どうもお申渡しだけの物がととのへ兼ねまするなどと、成るべく官軍からの徴発を少くしようとする。名主がみな徴発に応じないので、官軍では之を隠匿するものと見て大変に罪が重かったもので、随分ひどい目に遇ふのださうです。そんな重い罪を受けながら会津辺りに米を送ったり、麦を送ったり彰義隊の一人一人を遁すのに随分苦心したものださうで、ですから彰義隊が負けて此辺に大分遁げて来た。それからは皆匿まって目黒方面に居った。それを又後で奥州方面に落したと云ふことですが、その当時などは随分苦心したのださうです。
まあそんな工合で、そうかといって天皇陛下に手向って宜いかといふと、それは悪いことだといふことは知って居ったけれども、どうも多年恩顧を蒙って居る徳川家のことが忘れられないで、悪いと知りつつ官軍の方えは米がない米がないと頑張って、成るべく少なく出すやうにして置いて、一方は苦しい自分達の食ふものは食はないで、徳川方の救助に送るといふやうなことをやって居ったさうです。 ――『大崎町誌』座談会より
薩摩屋敷の焼打ちの事件で、薩藩邸内を逃げだした浪士たちが、南品川の町々を焼土と化し、薩藩の船翔鳳丸にのって首領たちがうまく兵庫へ逃亡したことは、品川宿ばかりか、付近村々の人々に「薩藩にくし」といった感情を強くうえつけたことは否定できない。しかも維新になってもその焼失からの恢復は容易でなく、南品川馬場町などは筆師の家と演芸場の二軒あるのみだったという。古老の話でも、どんなに惨状を呈していたかがわかる。これでは、米の徴発に進んで応じようとする者がなかったのもやむを得ないことだったろう。
やはり「徳川びいき」といった気持が彰義隊の行動に拍手し、その負けた後も、なんとかしてやろうという感情が、江戸周辺村人たちの多くの実感であり、共通点であったといえる。
徳川幕府所在地、将軍お膝元として、特別の庇護のもとに繁栄に繁栄をつづけてきた江戸も、この彰義隊の事件で、はじめて兵火に見舞われた。
ながい間平和がつづいて、大火にこそ見舞われたものの、戦争というものを知らずにすごしてきた江戸市民にとって、これは大きな打撃であった。
多くの市民のうちには江戸をすてて地方へ一時退去するものがあり、武家はもう大政奉還以来、封建制度下での階級身分の崩壊といったことで、地方の身寄りを頼って江戸を去るものが多く、さしもの江戸も彰義隊事変後はさびれにさびれる状況を呈したのであった。
その江戸が比較的すみやかに痛手を恢復することのできたのは、東西二京の東京となり、さらに明治天皇の東幸によって首都となってからのことである。