元年九月の第一回東幸こそは、新しい東京のかどででもあり、品川にとっても、旧幕府時代にはかつてみることのない事件だった。
九月二十日京都をたたれた天皇は、十月十二日品川宿に到着された。それまでの品川宿場内の重立った人々の苦労苦心はなみなみでなかった。無事に宿泊をおえられて、東京へ出発するまで細心の注意が払われた。十三日、芝の増上寺におもむき、ここで行列を整え、呉服橋から和田倉門をへて城内に入った。当時、江戸城本丸は焼失したまま復興をみず、西の丸をもって将軍の居館としていたからである。
この入城に当たっては、とくに岩倉の意見により、「衣冠を正して鹵簿(ろぼ)によって人心を収める」方針がとられ、天皇は鳳輦(ほうれん)にのり、したがう親王・公卿・諸侯はみな衣冠帯剣し、三等官以上の朝臣になった徴士は直垂帯剣で、いずれも騎馬で、その行列の美麗さは市民を熱狂させるに足るものであった。
ことに大総督熾仁(たるひと)親王・鎮将三条実美・東京府知事烏丸光徳らが品川宿まで出迎えたことは、品川宿民の感激をよんだ。
在京の五等官以上および諸侯は坂下門外に奉迎し、音楽が奏せられ、そのすばらしさについて、イギリス公使館員のアーネスト=サトーは、行列の進むにつれて群衆がシーンとしずまりかえって感動する場面だったことを記している。
衣冠束帯の行列という、この形式がどんなに東京市民をソフトムードにし、感激を新たにしたか、はかりしれないものがあった。
九月の東幸はそうした点で、東京における世紀の祝典ともいえた。
明治天皇東幸の際における品川宿は、とくにいわゆる「新しい東の京」への第一歩として、非常な興奮と緊張のもとに、宿民の感激は維新の夜明けにふさわしいものであった。