まもなく、代官支配地には旧のままで武蔵知県事がおかれ、三人の代官の支配通り三人の知県事ができ、旧幕府の延長といった支配形態がつづけられた。古賀一平の支配地に属する西南部一帯の広範囲の地域には、品川県がおかれることになったが、新しい出発をしたのは二年の正月になってであった。
品川県時代には、まだ事業といっても、特別にとりたててあげるべきものはなく、ビール製造の事業なども行なったが、成績はあまり芳ばしくないようであった(本書二三ページ参照)。ただ政府命令による飢饉対策として「社倉」つまり米穀あるいは金を村々より出させるということに対し、品川県のやり方が、その管理を住民にまかせず、すべて品川県の指令に基づくことにしたため、税の二重のとりたてと見る村々もあって、武蔵新田村々の門訴事件という大事件をひき起こしたりした。
しかし、東海寺の本堂を県庁にしようとする改築工事なかばに明治四年の廃藩置県となり、品川県内は東京府に属する村と、神奈川県やその他に属する村とに大別され、その後村民の歎願などで区域の変化はあったが、今の品川区内の大部分の村は東京府に編入され、やがて、大区小区の制度の採用で、府内は十一大区に分れることになった。もともと大区小区の制度は朱引内に最初に行なわれたもので、戸籍制度に基づいて新しく編成されたかなり無理な行政区画であった。こうした点で、品川県なり、浦和県・小菅県などより東京府に編入された村々が、従来の村々の結びつきを無視したものとして共通の不満をいだくような行政区画であった。
区内の村々は、第七大区第二小区・第三小区・第五小区に分れ、十一年の郡区町村編制法により十五区六郡の制となり、荏原郡のうちに編入されるまで、この大区小区制といった行政区画のなかで、生活が営まれたのである。