三新法の公布

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西南戦争という大きな事件を境にして、政府側にも、国民側にも変化が生じた。

明治維新を迎えたといっても、幕末の時点で待望したものと現実がかなり違ったものとして受けとった人々も少なくなかった。そうした点からも農民の反抗が各所に行なわれ、自由民権運動が政府をおびやかしていたのもまた事実である。そうしたなかで三新法が公布された。

 いわゆる三新法―郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則―が発せられたのは、明治十一年七月のことである。

 政府は西南戦争を契機に、大久保利通のもとに政府の基礎を強固にするため、行政機構を手なおしして、新しい府県郡村単位の支配組織をすみやかに成功させて、自由民権運動にゆれ動く反体制的なものをしめつけようとした。

 ことに大区小区制度が戸籍制度に基づいた行政区画で、旧来の行政機構であった郡村単位と甚だ矛盾する不自然な面があったことは否定できず、その上、行財政の面でも、町村の行財政と府県郡の行財政をきりはなし、府県郡の行財政を政府の手に握ることが絶対に必要であった。しかし、五月に大久保が暗殺されたことは打撃であった。