十五区六郡

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こうした点からの三新法の発令であったが、この郡区町村編制法に基づき東京府は十五区六郡に改編された。十五区の地は俗にいう江戸府内で、戸数多く人口八〇万、府税の額は郡部の十倍であった。新しく郡部になった地域は概して農村で、戸数は十五区の約四分の一、土地は広いのに府税の額は僅少で、こうした両者の経済的な差が区部と郡部をわける大きな因をなしたといってよい。

 郡部は、荏原・東多摩・南・北豊島・南足立・南葛飾に分れたが、今の品川区内の村々は、いずれも荏原郡に所属したのであった。そして荏原郡役所が、北品川宿一七七番地に設けられたことは、品川宿が郡内村々に比べて、はるかに町型的であり、江戸時代以来の宿場として重味(おもみ)があったことを示している。もっともその反面、政府側には、郡部とよばれる範囲を宿場町と近郊農村に限り、市街地の周辺部に発展しかけていた町を、できるだけ十五区内にくり入れて編成するといった方針がとられていたことも否定できない。

 これについで十二年には、郡内各村には村議会ももうけられ、地方自治とはいえないにしろ、そうした形をもって、明治二十一年の市制・町村制の発布まで継続していったのである。