江戸においては彰義隊事変後の市中の混乱はおびただしいものがあった。慶応四年五月十九日には鎮台府がおかれ、軍政が布かれたとはいえ、町奉行所のかわりに市政裁判所が南北の旧のままの形でおかれ、江戸市中をおさめることになった。できる限り市民の旧慣を尊重してやって行こうという方針も、人心を安定させるためであった。
市中は、彰義隊事変以後、治安が不充分な上、武士階級の崩壊という点で、直参の旗本邸は空屋が多く、荒れるに任せ、大名屋敷さえ、留守居がわずかという状態で、多くの藩士は国許にひきあげ、夜間の往来など危険極まりない状況にまでさびれていった。商工業者のうちにも江戸を見限(かぎ)って地方に転出するものもあり、さきゆきどうなるかの不安がみちみちていた。
京都においても、新政府首脳の間に、遷都の議が出ていたが、大久保の浪花遷都論は大阪商人へのゼスチュアにとどまり、前島密の江戸への遷都論が有力であった。これに対して京都、特に公卿側の反対が強く、市民も猛反対であったが、江藤新平・大木喬任(たかとう)の東西二京説の妥協案が出て、西京に対し江戸を東の京とする案が強力にすすめられた。遷都でなく奠都(てんと)とする案で、多くの人の納得が得られた。
東北の反抗などの不安な状況下に、一刻も早く東西二京の設定で、関東方面の民心をつかみ、人心をあらたにした新政府組織の充実が必要であった。