江戸、東京と改称

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こうして、慶応四年七月十七日「江戸ヲ称シテ東京トセン」との詔勅が出て、江戸は東西二京の東の京と定められた。その結果、東京府がおかれ、旧江戸町奉行所の後身である南北市政裁判所が廃せられてからは、ようやく新政府のもとに軍政から官治の民政にきりかえられ、江戸という感じから、新しい東京へと大きく動き出すに至った。

 まずその第一歩は、九月二日、日比谷内幸町の旧大和郡山柳沢藩邸に東京府が開庁したことである。東京府政がここに統一した一つの役所でとり行なわれることになった。ついで、九月八日には明治と改元、一世一元の制が定められ、日本の新しい出発点となった。しかし江戸市民のなかには「オサマルメイと下からは読む」などと反政府的批判も少なくなかった。

 江戸が東京と改まった七月以来、鎮台府が廃せられ、鎮将府がおかれたが、それは、さながら京都の政府と別に独自の行政命令を出すような点もあり、その上、東北・北海道はまだ容易ならざる状態にあり、東西二京の新しい東の京へ明治天皇の東幸が要望されていた。