それに追打ちをかける事件が、東京と改まって間もなくの八月十九日に起こった。それは品川沖に碇泊していた旧幕府の開陽以下の軍艦など八隻をひきいて榎本武揚が江戸湾を脱出、北海道方面に向かって逃走したことである。海軍力においては優秀だった幕府の軍艦を全部引きつれていったことは、品川の人々ばかりか東京市民にとっても大事件だった。慶喜(よしのぶ)が大阪退去のとき、一八万両を榎本が開陽に積んで運び、政府側にひきわたさなかった上、幕臣や脱藩の士二、〇〇〇人も軍艦へ乗せ、フランスの軍事教官までつれて出帆したことは政府側を驚愕させた。しかし艦隊は房総沖で嵐にあって二隻を失い、六隻が松島湾に入ったのである。これがやがて会津落城後、北海道の五稜郭を占拠するようになるのであるが、こうしたことも、明治天皇の東幸が、急速に実現されることを切望する声の高くなる理由でもあった。東北・北海道おさえの意味もあり、さらにこれによって新政府と鎮将府との意思統一という問題もあった。とくに民政への切りかえが急務であったのである。