当時の品川宿内の模様については北馬場の平松氏手記の「戊辰日録」、慶応四年(明治元年)戊辰十月十一日のところに次のようにのべている。(品川町史下巻三〇四ページ)
近日 鳳輦着御により、輦路石俗に云砂利を敷き、両側町家檐先に行馬(ヤラヒ)を結ひ渡し、結構最厳整也。輦路ハ品川より大通り尾張町布袋屋の横町より數寄屋橋門、夫より西城行在所へ入御也。芝増上寺門前浜松町の北角に御小休と牌せし高札建立輦路横丁小路先に、五辻家東下の前にハ板屏噛ヒ違ひを構へ、幕府通行の形容也しが、この頃烏丸家品川辺迄再見分の時、其儀に不レ及一同拝見すべしとの事にて、板屏等都て取毀ち平常の如し。
初更隠栖に帰るに、正しく今夜神奈川駅御宿にて、明十二日八ツ半品川着御、御止宿也といふ。駅中混雑いふべからず。されど幕府通行の如く商売留めなどいふ事なく、浴屋に至る迄遠慮に及ばずと寛大の御事也。
と記し当日駅内の状況については次のように述べている。十月十二日の条に(品川町史下巻三〇五ページ)、
蓮長寺ハ今守護兵隊中黒田兵五十人止宿、南馬場都て十ケ寺諸藩の兵隊止宿、心海寺ハ藤堂兵弐百三十人余止宿すといふ。北品川二丁目養願寺門前出先き東側に下馬札建レ之、又御本陣入口より十間許り北、東側河惣の向ふの下馬札建レ之。御本陣入口向つて左りに 行在所三字の高札建レ之、同北品川堺橋より北、石泉屋を始め両側旅籠屋ハ、供奉の公卿中山殿を始、広幡・三条西・綾小路・高野・橋本・倉橋・植松等、連扉止宿の標札有り。橋南品川貴船社入口、通り向て右に内待所三字の高札建レ之、同社元鳥居跡是亦向て右に制禁の杭を建つ。内待所行宮従レ是内汚穢不浄之輩不レ可レ入事。
社前通往還より石階迄砂利を敷、石階前三間許り手前よりナゾヒに板敷の橋を掛、石階上より社頭迄同く板を敷渡したり。社内社壇貴船神ハ外へ移し、白木の床机様の物二脚あり。是に内待所御唐櫃を鎮座すとミえたり。南品川壱丁目中程西側に下馬札を建レ之。品川駅中先達て五辻家下向以来、都て横町并寺院表門通りハ板塀を修理(ツクロ)ひしが、是迄一同取捨平常の通り也。但町家ハ両側共にシメ縄を張る。依て其竝(ナミ)に寺院門前入口にシメを張渡したり。因ミに記す、高輪東禅寺・泉岳寺等往還通り表門に大額を掲ぐ、是ハ卸すに及ばず、油紙を以て覆ひつゝむ。品川海晏寺の額も同様なるべし。北品川法禅寺ハ烏丸殿今日より御出迎止宿也。
阿州・土州等君侯東下ありし分ハ、御本陣迄御出迎ひ也。烏帽子・狩衣にて供方ハ戎服鼓笛を用ゆ、甚不相当也。
第一の御先駆ハ秋月侯にて、是は已に五七日前江戸着也。鳳輦前後御供奉ハ江州水口・加藤備前・黒田世子等也。
今朝神奈川駅御発輦、横浜在留の夷賊ども婦人を召連拝見御免ありしと。夷賊どもハ国風立ながら構ず、帽ハ脱すといふ。嗚呼国威弊衰可レ悲々々。川崎駅御憩、御御(マゝ)昼の供御相済、大森村山本梅屋敷御小休、行在所殿を新建すといふ。昼八ツ半時品川本陣に着御。【中略】夜に入り駅中の形□を巡行点検するに、御本陣も別に兵隊の警固なし。幕府其外宮家・堂上止宿の時ハ、本陣前往還前後に縄を張り、かむり物・高履等を制す、右の如きことなし。唯入口東側弐軒□□〔左右カ〕の旅籠屋に、御紋の手丸灯燈を各携へし士十人斗り立廻り居るのミ。但御本陣入口往還の左右に、御紋の高張灯燈二本を建つ。
と記してある。
品川宿をあげて、周辺村々ともども、新しい時代の夜明けを迎えたことを、この東幸で充分味わったことであろう。
宿泊当夜の住民たちの緊張はそれこそ大変なものであったようだ。しかし、周辺村民が大量の助郷に狩り出されて、苦しんだことも事実であった。
翌十三日天皇一行は品川宿を出発、芝増上寺で行列の隊伍をととのえ、呉服橋から和田倉門を経て城内に入られ、第一回の東幸となった。行列は、永い間将軍お膝元であった東京の市民に鹵簿(ろぼ)堂々の入城を示すために考慮され、盛大なものであった。大総督熾仁(たるひと)親王・鎮将三条実美・府知事烏丸光徳などが、当日品川宿まで迎えに出たのもそうした配慮であった。これをみた市民がどんなに感激したことだったろう。