天盃頂戴と市民

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政府は市民のこうした感情の変化にさらに追打ちをかけるように、二十七日全市民に酒をくばり喜びを頒つ挙に出た。品川宿門前町は旧町奉行支配であったため、一八門前町々にも賜酒があった。これが大成功で、市民は十一月六、七の二日間家業を休み、下賜の土器を天盃とよんで、天盃頂戴の旗をかかげて市中をねり歩き酒をのみあい、祭礼のように山車(だし)が出たりして大騒ぎとなった。彰義隊の戦以来、しばらく火の消えたようだった江戸市中は、これでようやく息をふきかえした。徳川びいきだった市民が、この賜酒という事件で、すっかり明治政府に親しみをもつように大きく転換したといえる。

 品川門前一八ヵ町が、いろいろ事情もあり、住民の歎願もあって、市中よりおくれたとはいえ、雀の涙ほどの三樽の賜酒をうけたのは、江戸時代、南北品川宿とは別で、町奉行支配であった関係からであるといわれている。政府もはじめは寺社領には手をつけずにいたが、寺院町を含めて品川全部が行政的に武蔵知県事支配の、いわゆる旧代官支配地にくりいれられたのは、真偽は不明だが、「これより北東京」といった杭を海晏寺門前の南端、大井村泊船寺の境にたてたのを、品川の問屋たちが、品川と東京とは別であると主張して、その杭をこわし、別な杭を十月の七、八日ごろ八ツ山下に建てたため、品川宿門前町が旧代官支配地に全部くり入れられ、武蔵知県事の古賀一平支配になってしまったのだという。品川の伝馬関係の宿駅という立場が、町奉行支配の品川門前町を代官支配地扱いにしてしまった点で特筆すべき事件であったといってよい。間もなく一般的にも寺社領は府の支配から知県事の支配に移った。

〔付記〕 「戊辰日録」には品川の賜酒について、三樽の賜酒に対して、少し外聞が悪いというので、鉄砲洲辺から樽を船にのせ、別に四樽買いたして七樽とし、少しは見ばえのするようにして、八ッ山へ着船、車でひいて帰ったというが、その心理をおしはかると実に面白い(『品川町史下巻』三一八ページ)。